≪キョン×古泉 バレンタイン≫


 これ以上抱えきれないかもしれないから、だから、たった一言だけ。


 俺は自惚れていたんだろうか。唐突にそう思った。
 朝から学校内は色に例えるならもの凄く乙女チックなピンク色のオーラに包まれていた。
 一週間以上前からデパートや駅前を賑わせていたお菓子業者の思惑にまんまと乗せられた日本人特有になりつつあるそのイベントに、校内に限らず日本全国の至る所でそのピンクな空気は撒き散らされているであろう。
 あぁみんなこんな事に金ばっかり使って大変だな、ご苦労さん。
 と、言ってやるつもりだった。
 それなのに朝から妙に落ち着かない俺の心臓の動悸は一体どういう事だろうか、いや疑問を提示するまでもない。俺は自分自身の気持ちをどうも毎回曖昧なトートロジーで誤魔化すクセがある様だ。
 同語反復が得意でも世の中得する事なんて少なそうだな。
 単刀直入に言おう。

 俺は古泉がチョコをくれるだろうと確信していたのだ。

 笑いたければ笑うがいいさ。俺の頭の中もあの部室で過ごした時間に侵蝕されて随分とおめでたくなってしまった様だ。
 普通に考えれば古泉は男だし、外国ならまだしも日本でのバレンタインの主流は女性が男性にプレゼント(主にチョコレート)を渡すと言うもの。
 古泉の話題が出るとしたら「あぁあいつどんだけチョコ貰ってんだよ忌々しい」と言う男共の僻みくらいだろう。
 それがどうした事だ。俺は古泉が俺にチョコをくれるんじゃないか、と言うただそれだけの事を朝から何度も頭の中で反芻し続けている。
 頭が可笑しいのは俺の方か? いやいやでも古泉がいそいそとチョコを作っている姿が容易に想像出来ると言う事がまず駄目なんだ、(そんな古泉が?)そうだ、そうに違いないと思う事にする(けど、もしかしたら、やっぱり俺が)。



 そんなこんなで人生の中で歳の数だけ味わって来たバレンタイン史上最も落ち着かない1日は、けれど何事も無く放課後を迎えた。
 俺の頭の中を思考不能にした張本人である古泉はと言うと、かなり遅れて部活に訪れた。
それもその筈、古泉はドアを開けるのすら一苦労なだけの大荷物を抱えていたからだ(そして扉を開けた時にその手から零れ落ちたチョコレートを慌てて掻き集めたりしていた)。
「…ご苦労さん」
 四方や此処で使う事になるとは思っていなかったが取り敢えず思い浮かんだ言葉を投げ掛けてみる。
 すると古泉は拾い上げた可愛らしい包みを両腕で抱えながら顔を上げて、遠慮気味ににこりと微笑んだ。
 敢えて何も言わずに微笑んだこいつはそのまま鞄にその包みを詰め込んで、いつもの様に俺の向かいのパイプ椅子に腰を下ろす。
「普段は頂かないんですけどね…」
 と、許容量ギリギリの鞄を見つめて嘆息した。
 その言葉が何だか少しだけ言い訳じみた響きを含んでいる様に聞こえたのは、そうあって欲しいと思った俺の幻聴か?
「流石に机の上や中に名前も書かずに置いておかれたものまでは…断れませんでした」
 やれやれ、と言う風に肩を竦めて見せた古泉が、何だかちょっといつもよりも数倍困った様な雰囲気を醸し出していてそれがまた珍しかった。
「さて、今日は何をしますか?」
 しかし次の瞬間にはいつも通りの貼り付けた様な笑顔が古泉の表情を覆い隠して、俺は適当に「何でもいい」とだけ生返事を返す。
 俺は何を期待してるんだ。



 その日のオセロは絶不調で、何とか勝ったものの中盤まではあの古泉に押されると言う正に未知との遭遇に戸惑ったりした。
 あぁもう、ホントに今日の俺はどうかしてる。
 古泉が俺をどう認識しているかと言う問題についてはお互いにほんの少しなら確認し合ってるしだからと言ってその心情の全てを理解している訳では無いけれど、
(そうだ、俺はきっと)
 それでも俺は古泉が俺の事を拒絶もしなければ否定もせずに、ただ俺が思っているのと同じ様に好きでいてくれていると思っていて、
(きっと、 )
 それが当たり前だと思っていて、

(俺は、自惚れていたんだろうか…)

 そりゃそうだ、古泉だって男なんだ。
 女の子からチョコを貰って「好きです」なんて言われた日には何とも思わない筈は無いし俺だって朝比奈さんにそんな事を言われたら正気を保てる自信は無い。
 だから古泉の事を同情とか憐れみとかそう言う気持ちから意識し始めた俺と、興味深い観察対象の一挙一動を左右する人物として意識し始めた古泉と。
 そんな曖昧な、それこそ同語反復で全てを誤魔化して互いを自分の中で何処に位置づけるかと言う問題から目を逸らし続けていた俺達が、綺麗で純粋な感情に敵うはずも無かったんだ。
(俺は、自惚れていたんだ)
 唐突にそう思った言葉が、確信に変わった。最悪の日だ、今日は。
「…どうしました?」
 不意に掛けられた古泉の澄んだ声が、俺の意識を一瞬だけでも正常回路に復帰させた。
 何か、言いたい言葉が喉元を掠めた。
 けれど俺は何も言えないまま「何でもない」なんて言葉を反射的に返す。
「そろそろ帰りましょう」
「荷物でも持ってやろうか」
「…いえ、大丈夫ですよ。心配いりません」
 妙に感情の無い言葉を交わした後で、俺と古泉は帰路についた。



「今日は星が見えませんね」
 帰り際、会話のない沈黙の中で、古泉がふと夜空を見上げて呟いた。雨こそ降らなかったものの、今日の天気は曇り。星なんて見える筈もなかった。
「そうだな」
 呟いた言葉は想像以上に空虚で、あぁ失敗したな、普段ならもっと上手くやるのに、と俺は少しだけ後悔する。
 今日ほど早く帰りたいと思った事は無いかもしれない。ふたりの時間がこんなに煩わしいのも気まずいのも初めてだ。
(だって、全部俺の自惚れかもしれないだなんて)
 そんなの、
(あまりに滑稽過ぎるじゃないか)
 恋なんて精神病の一種だと言ったハルヒの言葉が頭の中を過ぎった。実際その通りなんだろうな。
 俺は何をするでもなく、取り敢えず古泉と同じ様に夜空を見上げた。
 いつかこいつに手を引かれて侵入した閉鎖空間よりも深く、黒く沈んだ空だった。
「…なぁ、古泉」
「何ですか?」
 いつもの様に貼り付けた笑顔のままの古泉が首を傾げて俺を見る。首に巻いた茶色のマフラーがとても似合っていて、でもその表情が気に食わなくて、

 俺はそのマフラーを引っ張って軽くキスをした。

「…っ、」
 短く息を飲む音が聞こえて、それから直ぐに唇を離す。
 自惚れでもいいさ、恋なんて精神病の一種なんだとしたらそれは古泉にチョコを渡した子達だって同じ事だと言う事で、そうだとしたらその子達と俺の違いは何だ?
 言葉で、態度で、それを伝えたかどうかだ。
 だったら俺だって伝えてやるよ、お前に。
 でもそんなに沢山貰ってるならこれ以上抱えきれないかもしれないから、だから、たった一言だけ。

「好きだぞ、古泉」

 間近で顔を見つめてそう言う。
 さて、その時の古泉の表情をどうやって表現したらいいんだろう。
 さっきまでの貼り付けた様な笑顔は一瞬の内に吹き飛んで、驚いた様な呆然とした様な、年相応の表情だった。
 それから少しだけ目を伏せて(何だかそれは泣きそうな顔にも見えて)、そしてまた古泉は微笑んだ。今までの笑顔じゃなくて、もっともっと幼くて純粋で、綺麗な。
「…、よかった…」
 絞り出した様なか細い声が俺の耳元を掠めて、お、と思った時には俺に抱きついた古泉の微かな体温だけが俺の全身を支配した。

 知ってる。お前が俺に抱きつく時がどんな時か。
 情事の時だってそうだからもう知ってるよ。自分の顔を見られるのが嫌だからこうして表情を隠す事くらい。貼り付けた笑顔を突き崩された時の自分の表情を、見られたくないって事くらい。
 知ってるって言ってるのにでも抱きついてくるお前が、何だかとても子供の様に感じた。
 それから俺はそんな古泉の背中を撫でて、ほんの少しして漸く落ち着いたであろう古泉は潔く体を離して顔を上げた。
 そして冷たい手が俺の手を(そう、あの日の様に)取って、その一瞬で俺の手に渡されたものを手のひらに感じた時、確認せずとも解ってしまったそれが嬉しくて。
 俺はゆっくりと手のひらを見つめた。
 少し歪な形の、小さなチョコレート。
「あの、…貴方に、渡そうと思ってたんですけど…」
 頭の中でバラバラになっている言葉を何とか普段通りに紡ごうとする古泉は何処か一生懸命で。
「渡して良いのか、わからなくて…」
 ホントに馬鹿だよ、お前。そして俺もかなりの大馬鹿野郎だ。
 お前は俺が何で今日一日をイライラしながら過ごしたか何て塵ほどにも気付かなくて、俺はお前が必死で言い訳しようとした事にも気付けなくて。
 今更ながら、言い訳じみた言葉を捲し立てた事や「よかった」と安心した様に紡がれた言葉の理由を俺は理解したわけだ。
(あぁ、もう)
「貴方に嫌悪感を抱いて欲しくなかったんだと思います、僕は」
 必死に言い訳を続ける古泉。
(もういいって、何も言わなくて)
「後手に回るしか出来なくて結局何も出来なくて、だから…」
 地面に深く落としていた視線が、不意に上げられる。
 星空すら見えない黒い空の中でぽっかりと丸く地面を照らす街灯の微かな光が、古泉の顔を照らした。その表情だけで、今日は全部全部、許せる様な気がする。

「有り難う御座います」
「俺の台詞を取るな」

 そう言ってもう一度、言葉を紡ぎ掛けた古泉の唇を塞ぐ。
 呼吸を奪う一瞬。
 それからまたたった一言、「ありがとう」と、囁いたんだ。



 さて、それからの話を少しだけ続けよう。
 俺はまた顔を隠そうとして手を伸ばしてきた古泉の頬を両手で押さえて、照れながら戸惑う古泉の顔を十二分に堪能しながら、あぁ今日は優しく抱いてやろうと思ったりした。不謹慎だと思うなら思うがいいさ、だって今の古泉はアレだ、据え膳だ。
 それと同時に、両親に対する古泉の部屋に泊まるもっともらしい言い訳も考えていた。

 ハッピーバレンタイン。


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Last-modified: 2008-01-30 (水) 23:15:59