雪山症候群妄想(古キョン)

 

「お休みなさい」

 向かいの部屋に入っていく女性陣宛ての微笑みを貼り付かせたまま、ゆっくりとドアを閉める。廊下から忍び込む光が断ち切られると、灯りを付けていない室内の温度が急激に下がったような気がした。
 すっかり表情が抜け落ちた所で、あてがわれた殺風景な個室を振り返る。寒々とした小さな部屋だったが、調度がスイートルーム並だったとしても同じ事だ。この得体の知れない空間で心安らかに眠れるとは思えない。闇の中のぼんやりとした輪郭を見るともなしに眺め、背後の扉に背を預けた。
 そういえば一人になって初めて、案外と消耗している事に気付いた。肩が強張り、頭がやけに重い。こんな状態では他の団員にも気付かれていたかもしれない。
 ――実際、あまり芳しい状況ではありませんしね。
 すっかり板に付いた口調で形ばかりに自分を労ってみるが、余計に虚しくなっただけだった。
 軽く溜め息をついて、後頭部を扉にもたせかけた。自然に瞼が閉じる。

 考えろ。

 突然の猛吹雪。誂えたように出現した山荘。時間の流れの相違。不可解な長門有希の様子。彼と交わした会話。

 考えろ。冷静に、客観的に、速やかに。

 こうしている間にも、隣室との時間はかけ離れていっているのだろうか。既に自分たちは永遠に近い断絶の扉を閉じてしまったのかもしれない。
 今の自分に振られた役割は、彼女――愛すべき我らが団長の周縁事項を最も納得行く形で配置しつつ、この事態に説明を付ける事だ。事態を把握する事が即ち解決に繋がるとは限らない。が、少なくとも長門有希が核心を語らない今、それが出来るのは恐らく自分だけだろう。彼が先程の会話で自分に少しばかり期待していたとすれば、やはりそういう事なのだ。

 考えろ。手の内の情報の全てを用いて。

 片手で顔を撫で下ろし、目を開けた。
 部屋の中は相変わらずの無機質な印象だったが、はめ殺しの窓の外から差し込む雪灯りが先程よりは明るく感じられた。光の届く範囲だけは淡く冷え冷えとした色に染まっている。
 隣の部屋も同じような様子なのだろうか、と何となく気になった。

 がくっ、と体が前のめりになった所で、意識が浮上した。
 時間感覚は出来るだけ保っておくべきだ、とそう心掛けていたはずだったが、ベッドに腰掛けている内に船を漕いでいたらしい。額に手を当てて一度大きく息を吐き、体の後方に片手を突いた。

「古泉」
 思い掛けない声が意外な近さから聞こえ、ぎょっとして振り返る。
「悪い、返事なかったから勝手に邪魔した」
 カーテンを閉めている今、室内の闇の中ではっきりとは見えなかったが、ベッド脇に立っている影がある。声からすれば彼のようだった。というか、他に該当する人物がいない。
「あ……鍵、掛かってませんでしたか」
「ん? 開いてたぞ」
 彼は何でもないようにそう答え、自分の横にどさっと腰を下ろした。あまり弾まないスプリングが苦しげな音を立てるが、それよりも。
 鍵を閉めなかった? この状況下で、自分が?
「そんなはずは……」
「古泉」
 自分の呟きをかき消すように、彼が自分を呼んだ。直感的に、何か良くない兆候を含んだ声音だと感じた。説明の付かないざわざわとした感覚が、背中を駆け上がる。
 これは――この予感は何だ?
「……ああ、すみません、暗いままもなんですね。今灯りを点けますから」
 自分が何に反応したのかがわからない。その不可解な感覚を振り切ろうと、我ながら不自然な間だと思いながら腰を上げた。
 そして続く彼の行動に、本気で言葉を失う事になる。
「いや、いい」
 呟きながら、彼は手を伸ばして立ち上がった自分の手首を正確につかんだ。握られた部分は、痛いほどに強く圧迫されている。
 いぶかしむ自分を後目に、彼はその手をぐいと引き寄せた。
「……っ」
 バランスを失い、ベッドの上に片膝を突いて乗り上げてしまう。
 すぐ目の前に彼の顔があった。普段なら、彼に思い切り眉を顰めて非難される近さだ。意図せず近付いた距離にたじろいで身を退こうとするが、彼の影が先に動いた。
 空いている方の手が、おずおずとぎこちなく自分の背に絡んでいく。それが拒まれる事を恐れているような動きに感じられて、止める事ができなかった。つかまれていた手も離され、今や彼の両腕が自分を包み込もうとしていた。
 彼の体に抱き込まれてはじめて、服が一緒に風呂場で着替えたTシャツではない事に気付かされた。肩の堅いウール生地のような素材が頬に触れる。冷静に考えればその時点で、いやそもそも彼がこの部屋に現れた時点で有り得ない話だったのだが――その時の自分は彼の首筋から香る彼の匂いだとか、かすかに震えている彼の体の熱だとかの感覚器官からの情報に、ほぼ完全に意識を奪われていたのだった。

「好きだ」

 弱々しい彼の声のほとんどが、熱い息となって耳の中に吹き込まれた。
 悪魔の言葉の意味が翻訳されて脳に到達すると、それは即座に悪性の熱源となって自分を芯から煽りたてた。体温が上がるのに反して、顔からすっと血の気が引いていくような気がした。
 ――質の悪い冗談だ。全然笑えない。
「……この状況下で、ふざけている場合ではないと思いますが」
 乾いた喉に言葉が絡み、上手く声を出せなかった。気付かれないよう一度唾を飲み、普段の古泉一樹の声を取り戻す。
「冗談はまた次の機会にしましょう。その時は大いに笑って差し上げますよ」
 人畜無害な対人スキルを仕込んでくれた『機関』に、今だけは感謝しておく。この微笑み混じりのポーカーフェイスと口調は、こんな時には卑怯な鎧にもなる。
 彼はしばらくの間自分の肩に顔を埋めていたが、
「すまん。……言うだけ、言っておきたかった。忘れてくれ」
 そう掠れた声で謝り、のろのろと体を離した。彼の体の重みが消え、項垂れたシルエットが見える。
 どれだけ待っても、自分が望んだ「冗談だ」の一言は、彼の口から出なかった。彼の姿に目を凝らしながら、自分は徐々に焦りに似た気持ちを募らせていた。
 その結果、自分は話題を切り上げる最後の言葉の選択を間違えてしまったのだ。もうこの件には触れるなという警告が、大音量で鳴り響いていたのに。
「からかうのも程々に。……万が一、僕が本気にしたらどうするんですか」
 彼が顔を上げるのが見えた。衣擦れの音がして、自分の二の腕に縋る感触があった。
 闇の中で、彼の瞳がうっすらと光った。
「……してみろよ」
 ほのかな輝きが細められたと同時に、唇に濡れた感触がした。軽く合わせた唇が離れる間際に、舌がくすぐるように表面を舐めていった。
(これは――)
 呆気にとられていた自分は、彼の唇が再び押し付けられるのに困惑し、最後には観念して、自分自身に彼の体を抱き寄せる事を命じたのだった。

 手探りで彼のネクタイをつかみ、乱暴に緩めた。彼は最初に軽く抗っただけで、自分のするがままを受け入れている。(彼はそんな類の従順さは持ち合わせていない)
 苦しそうな声に構わず、舌を絡ませながら雑な手付きで胸元のボタンを開けていく。喉から鎖骨の辺りへ指を這わせると、声を堪えているのか鼻に抜けるような唸りが聞こえた。(彼のこんな声は知らない)
 間違いない。彼が着用しているのは明らかに我が高校の制服だった。押し倒した彼の体は、自分にとっても馴染み深いブレザーに包まれていた。(正直に言えば、毎日見飽きるほどに目にしている姿の彼に触れる事に興奮しており――泣きたい事にそれだけは真実だった)
「……古泉」
 彼の前髪をかき上げ、額にもキスを落とした。
「何でしょう」
 口付けの合間の吐息も、自分の背に縋る指の感覚も、彼の全てが自分を煽ろうとする。(自分の好みにあつらえたように)
 そして熱に浮かされたような口調で、彼が呟いた。

「お前だけがいてくれれば、俺は……」

「――この辺にしておきましょうか」

 枕元のカーテンを、勢いよく引いた。闇に慣れた目には眩しいほどの光が、組み敷いた人物を照らし出す。彼に瓜二つの、知らない男が自分を見上げていた。
 外見では区別は付かないかもしれない。念のためと横を向かせた彼のうなじを見るまでは、そう思っていたが――夏の合宿で見付けたあのホクロ毛は、ホクロごと消えていた。
「ゲームオーバーです。なかなかお上手でしたよ……キスだけは。むしろ上手すぎましたね」
 相手も少し驚いた顔から、やる気の無さそうな表情に変わっている。その方が余程彼に近いと思うのだが。
(自分の願望のままの彼と寝たいなどと、誰が思うものか)
「つまらない悪戯の代償は、この世界からの出口を提供して頂ければそれで十分です」
「難しい相談だな」
「あなたには無理だと言うのなら、あなたの創造主ですか? そちらにお願いして頂けませんか」
「残念だが、俺に出来る事はそう多くないんでね」
「ですから、あなたは……」
 言い掛けた途中で突然首に手を回され、目を見開いた。
「……お互い損な役回りだな」
 軽く唇が触れ合い――その次の瞬間、腹と背中から腰に掛けて衝撃が走った。不意を付かれ、ベッドから落ちる程の力で蹴り飛ばされたのだと気付いた時には、既に彼はドアの向こうに消えていた。
「待……」
 後を追って駆け出した勢いのまま、自分はドアを開け放った。

 ……どうだ。
 どうだというのはつまり、賢明なる諸君がこれをかいつまんで聞かされた俺の立場になったらどういう感想を持つかと、その辺を俺に教えて頂きたいという事だ。俺の反応が異常ではない事を再確認しておきたい。
「あなたがあの時の話をどうしても聞きたいとおっしゃるので、分かりやすく申し上げたまでですが?」
 ああそうだよ野次馬根性を出した俺が悪かった聞かなきゃ良かった!
 ちょっとした興味でこの話題を出した、数分前の俺の舌をひっこ抜いてやりたい。つまらん好奇心は猫を殺した上に俺の本日の残りHPを機銃掃射していったね。
「結局はあなたじゃないんですからいいじゃありませんか。恥ずかしいのはむしろ僕なんですが」
 お前はそういう事を臆面もなく俺に話せる時点で羞恥心が欠如してるんだよ。故にまだ幾分か一般的恥じらいを植え付けられている俺の方が今こうして苦悶している訳だ。
「困りましたね。これでは恥を忍んでお話しした甲斐がない。どの辺りがお気に召して頂けませんでしたか」
 だから一体どこの誰が、こっ恥ずかしい身に覚えのない自分の告白&ラブシーン(しかも相手はこの古泉だ!)を実況されて喜ぶっていうんだ、言ってみろ。いるなら今すぐここに連れてこい!
「顔、赤いですよ」
 忌々しいニヤケ顔が俺を面白そうに眺めている。……物凄く殴りたい。殴っていいよなこれは。
 そんな葛藤の末、最終的に俺の口からは、その日最大級の溜め息が発せられたのだった。


  • コメント行すっかり忘れてた。申し訳ない…。 -- 162? 2007-07-05 (木) 19:19:44
  • GJですGJ過ぎます姐さん…!これからテレカ見る目も雪山見る目もガラッと変わります本当n -- 2007-07-07 (土) 00:33:23
  • 今更だがGJ!古泉の余裕ぶりが自分の中の古泉像にピッタリだ! -- 2007-07-08 (日) 23:25:20
  • 絶対こんなことがあったとしか思えない!古キョン派としてはとてもおいしくいただきました( ゜∀゜)=3 ムッハー -- 2007-07-25 (水) 18:56:04
  • 1期で無駄にほくろ毛のシーンがあったのは、これの伏線なんじゃないかと穿ってしまうのですが、どうですか。(阿呆か -- 2007-09-25 (火) 02:31:20


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Last-modified: 2009-12-09 (水) 16:21:24