*キョン→古 レイニー・シーズン [#ue092b79]
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 俺がその光景を見掛けたのは、多分偶然だった。何故そう言い添える必要があるかと言えば、あいつにしては迂闊だと俺が思わざるを得ない、出来過ぎのシチュエーションだったからに他ならない。 ~
~
 梅雨前線真っ只中と伝えるお天気お姉さんも心なしか暗い顔をしていたその日、当然雨は朝から降り続いていた。最近はずっとこんな調子で、我が公立高校の年季の入った床は十分に湿気を含み、上履きの底で音が鳴るような状態だ。窓際の席の俺は授業中の大半も陰気な鼠色の空を眺めている訳で、そろそろこの空の色にも食傷気味の頃だった。 ~
 そんなダウナー気味な気分で、放課後の俺は部室へ向かっていた。岡部に呼ばれて教室を出るのが遅くなったせいか、もう廊下には人影もまばらだ。そんな気分のせいか? すれ違う数人の生徒も一様にどこか陰鬱な表情に見えてきて、俺の気分パラメータは更に下降気味だった。 ~
 旧館へ至る渡り廊下にも、人の姿は見えない。ハルヒが文芸部室に現れるまでは、もともとそう騒がしい場所でもなさそうだったからな、こっちは。先日までは日溜まりに満ちていたこの場所も、光量の少ない曇り空の下では薄ら寒い印象がある。早々に部室でキュートな朝比奈さんのお姿を拝見して、ほっこり温かい気分になりたいもんだ。 ~
 足を速めようとした時、視界の隅で床の一部が鈍く光った気がした。よくよく見れば、床の端に小さな水溜まりが出来ている。誰かがその上にある窓をきちんと閉めていかなかったようで、僅かな隙間から雨が降り込んでいたのだった。 ~
 数時間か数十分前か知らんが、その(仮称)x氏がこんな日に何故窓を開けたのかは甚だ不可解である。が、そんな考察は……そうだな、古泉あたりにでもやらせておけばいい。あいつなら放っておけば喜んで有る事無い事言い出すだろうからな。 ~
 その窓を閉めようと窓枠に手を掛け、ついでに外を見下ろし……そこで俺は見なけりゃ良いものを見付けちまったのだ。 ~
 教室の方向からは植栽で死角になっている一角に、2つの傘が寄り添っていた。藍色の大きめの傘と、白っぽい地に柄の入った小降りの傘。明らかに男物と女物とわかる傘の一方に、俺は既視感を覚えた。よくあるタイプには違いないが、あの色はつい最近目の前で見たような気がしなくもない……と俺は首を傾げた。今朝の登校中前を歩いていた奴とか……いや、それだけでこんな感覚が起きるものなのか? ~
 その間にふいに傘を傾ける角度が変わり、持ち主の上半身が現れた。俺から見て手前側にいる恐らくは女子を見下ろしているのは、俺が今しがた(仮称)x氏の動機を得意げに推理する姿を想像していた、古泉だった。ああ、そう言えば昨日あいつの後ろを歩いて帰ったんだったかな。朝比奈さんの赤い傘と段違いに並んでいたから、妙に印象に残っていたのかもしれない。相手の姿は傘に覆われており、俺の場所からはスカートの端くらいしか見えなかった。古泉との身長差から考えると、背格好はハルヒくらいだろうか。 ~
 遠目だったが、古泉の表情はいつものそれよりもややニヤケ度が不足しているように見えた。どちらかと言えば真剣と呼べるような顔をしている。あいつにしてはかなり不自然だ。……いや、あれが古泉の素なのかもな。あいつの顔を見るのなんて大抵はハルヒ絡みだ。謎の爽やか転校生のキャラ設定上、俺が古泉の素の顔に出くわす事なんて今後も無いのかもしれん。そう考えると貴重なシーンではある訳だ。ただ女に対しては基本的にスマイルの特売をしている奴だという先入観があった俺には、微妙な感覚だった。……つまりはあれが古泉のマジ顔なのだとしたら、これはちょっとヤバい現場に遭遇しちまったんじゃないか、と思い至ったのだ。 ~
 所謂あれだ。……告白とか、彼女とか。そういう関係。 ~
 そもそもあいつにそういう話が出て来ないのがおかしいとは思う。妙な空間で日夜忙しく働かされてるとは言え、その『機関』とやらが高1男子の恋愛にまで口を出してる訳じゃないだろう。転校前の学校あたりに女がいてもおかしくはないとは思っていた。が、そうでなくとも古泉は北高女子内ランキングで上位に入っているらしい。谷口情報なので正確性は期待していないが、古泉の容姿・成績的にまあそんなもんだろうとは思う。……無駄に腹が立ってきた。だからこんな場面が有るとしても別段驚きはしないが、俺がそれを目撃してしまうのは話が別だ。俺だって(万が一そんな場面が今後有るとして、だが)好意を抱いている奴と二人でいい雰囲気になってる所なんて、知り合いに見られたくない。同様に外野で冷やかしてるだけなら構わんが、知ってる奴のそういう場面には実際直面したくないもんだ。対処に困る。 ~
 大体雨の中二人で外にたたずんで、って状況がベタじゃねえか古泉よ……などと俺が考えている間に、白い傘の影から細い手がすっと伸びていた。指先が、古泉の二の腕の辺りに触れる。 ~
 見る間に、古泉の表情がいつもの馴染んだ微笑みに変わった。 ~
 固まった俺が視線を逸らす前に、古泉は引き寄せられるように体を屈め、白い傘に姿を隠した。 ~
~
 ……ひょっとしなくても出歯亀って奴か? この状況は。 ~
~
~
「……でばかめって、何」 ~
 長門。今何と? ~
「でばかめ」 ~
 ……長門さん。それは今この俺が口に出していましたか? ~
「言った」 ~
 それはな。いつぞやの眼鏡属性以上にお前が知らなくてもいい情報だ。むしろ聞かなかった事にしてくれ。頼む。……頼みます。 ~
 数秒俺を見つめた後、長門は静かに読書に戻った。膝の上の分厚い本のページがめくられる音がする。承諾してくれた……のか? ~
~
 自分が目撃した事に困惑しつつ文芸部室に辿り着くと、その片隅に座する置物・長門しか姿は見えなかった。団長席もポットの前の定位置も空席である。 ~
「ハルヒと朝比奈さんはどうした?」 ~
 ドアを閉めながら問い掛けると、長門は本から顔を上げてハンガーを見た。つられて視線を向けると、朝比奈さんのメイド服一式が見当たらなくなっている。 ~
「改造」 ~
 俺はお前のその一言から全てを想像せねばならんのだな、長門よ。ちょっとした推理ゲームだなと頭を抱えそうになって、俺は昨日の放課後を思い出した。確か朝比奈さんのメイド服の裾をどこかに引っ掛けたとか何とか……。 ~
「そう」 ~
 長門はごく簡単な肯定の言葉を返してきた。つまりは、ハルヒと共にメイド服を修繕する為に朝比奈さんは連れ出され、更に恐ろしい事にあのメイド服は進化して帰ってくることになるようだ。今頃はハルヒの部屋あたりで魔改造が行われているのかもしれんが、あまり刺激的なお姿になっていない事を祈る。それはそれで嬉しいが、あの癒しの服装に関してはそのままでいてほしいという願望の方が強い。 ~
「今日は戻らないってことか」 ~
 定位置に腰掛けて、俺は頬杖をついた。長門の返事はないが、それも消極的な肯定の意だろう。そうなると後の面子は……あの男か。 ~
 来るかどうかわからんが、今古泉が普段通り入って来たとして、俺はどういう対応を取るべきなんだろうな。意図せずとはいえ見ちまったことには変わりがないが、ここは知らない振りをしておくのが無難か。からかって「見つかってしまいましたか。ふふ」などともてる男の余裕たっぷりに返されたら、俺がみじめになるだけだ。想像しただけでむかつく。もしくは本気で照れられたりでもしたら……これは無いか。万が一そんな姿が見られたら、一生そのネタであいつをからかえそうではあるが……この状況じゃいつまで古泉と付き合いがあるかもわからん。俺は何も見なかった。それでいいさ。俺から好んで古泉のプライベートに踏み込む気はない。あいつの彼女がどんな風なのかには、多少興味があるがね。 ~
 そんな事をつらつら考えていたら、長門に聞き咎められてしまった訳だ。危うくいらん知識を植え付ける所だった。……それにしても野郎の事でぐだぐだ考えるってのは、割に合わんな。回避不能の事故みたいなものなんだから、俺が悩む必要はこれっぽっちもないのだ。そうだ、見られてうろたえるべきは古泉だろう? 部活時間に実は隠れて女といちゃついてました、なんてハルヒにバレたらあいつのキャラ的に目も当てられんだろうからな。 ~
 そんな結論に達した俺は、体の力を抜いて机に突っ伏した。なんだか疲れた。この疲れとか倦怠感とか、そういうもの一式が古泉のせいのような気がしてくる。……まあ世に言う八つ当たりの変形版なのは十も承知だ。 ~
 ……ここまでなら、まだ俺の憂鬱度も鼻で笑える程度のレベルだったのだ。本当の悪夢はここからだ。 ~
~
 瞼を閉じると、さっきの光景がぼんやり蘇ってきた。白い傘。古泉の表情。制服を掴んだ手。……俺は今まどろみつつあるんだろうが、こんな時まであいつに悩まされるのか? つまらん脳内イメージに振り回されるな。忘れた方がいい。 ~
 その一方で、眠気でタガの緩んだ俺の妄想は徐々に暴走を始める。 ~
 ……あの後、古泉はどんな顔でキスしたんだろうな。 ~
 ぱらぱらと部室の窓を叩く雨の音が、傘に跳ねる雨粒のそれに変わっていく。 ~
 白い傘の影で、古泉の上体は傾き、ゆっくり睫毛が伏せられる。どんなに近寄ろうと整ったままの顔立ちが忌々しい。 ~
 いつの間にか片手が腰に回され、鬱陶しい長い前髪が額に触れる。あいつの息が唇にかかって、観念して目を瞑らざるを得ない距離を越えて、そして……。 ~
~
 ……っておい待て! ~
~
 額に手をやると、じっとりと冷や汗をかいていた。寝起きの自分にこんなにも絶望したのは、先日のいかれた空間のあの時以来だ。 ~
 いやに生々しい感触が残っていて、俺は口の辺りを何度も手の甲で拭わずにはいられなかった。 ~
 ……最悪だ。 ~
~
 俺が死にたいくらい不愉快なうたた寝から目覚めたその後も、結局古泉が現れる事はなかった。 ~
~
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「急遽バイトが入ってしまいまして」 ~
 盤上に貼り付いたオセロの駒が、古泉の優雅な手付きで返されていく。古泉、そこに置いたらもう勝敗は決まりだぞ? なんて助言はもちろんしてやらん。従って残りの手でじわじわいたぶるか、最後にひっくり返してやるかは俺の胸三寸だ。ちなみに本日の俺はすこぶるメランコリーに満ちており、その原因であるこいつには勝てそうな期待を与えておいて叩き落とす後者の手で行くつもりである。 ~
「連絡も差し上げず、昨日は申し訳有りませんでした」 ~
「まあいいわよ。あたしとみくるちゃんもいなかったしね」 ~
 朝比奈さんの淹れたお茶をごっくごっくと飲むハルヒは上機嫌だった。どうやらより刺激的なメイド服改造を企んだハルヒは、買い物の帰りに朝比奈さんとネカフェに寄ったらしい。そこでやはりと言うべきか、新たなコスプレネタを仕入れてしまったようだ。諦念漂う朝比奈さんの目を見ると詳細は聞けなかったが、後はもうこのお方のご健闘をお祈りするよりない。元よりハルヒのチョイスに手加減を求められるはずもないからな。日々MIKURUフォルダの容量は増えていくばかりではあるが、俺にも若干の良心は存在するのである。 ~
 新しいネタに夢中になったハルヒのおかげでと言うべきか、朝比奈さんのメイド服には幸いにして目立った変化はなかった。その点だけは感謝しておくぜ、ハルヒ。 ~
「キョンくん、どうぞ」 ~
 にっこり微笑んだ朝比奈さんに手渡された湯呑みからは、ほこほこと湯気が立っている。今日は昨日とはうって変わって気温は上昇気味だが、そんな些末な事はどうでもいい。穏やかな緑茶の香りで、俺の荒んだ気分もほんの少し和らぐ気がした。……しかしだ。 ~
「古泉くんのお茶、茶柱立ったんですよぅ」 ~
 朝比奈さんが湯呑みを古泉の前に置きながら、嬉しそうに笑う。 ~
「良い事がありそうですね。有り難うございます」 ~
 古泉がハンサムスマイルで礼を言うと、朝比奈さんは恥じらいを含んだ笑顔を残してポットの前に戻って行った。ああ朝比奈さん、そんな極上の笑顔をそいつに向ける必要なんてないんですよ。バイトなんて空々しい事を言ってますが、そいつは昨日だって本当は……。 ~
 ……駄目だ。そこまで考えて俺は再び憂鬱な目をする。思い出したくない。思い出したくはないが、じゃあ目の前にあるこの顔をどうすればいいんだ俺は。つい視線が顔の下の方に、古泉の口元に向いてしまって、連想するのは昨日の夢だ。自分が情けなくて泣けてくる。目隠しでも出来りゃいいが、いくらなんでも露骨に避ける事は出来ない。理由を訝しまれたら、今の混乱気味の俺は自白しちまうかもしれないからだ。「古泉のキスを目撃しました」ってな。だが何よりも俺が恐れているのは、ついでに「古泉とキスする夢を見ました」って無言の内に態度で告白しかねない自分自身だ。性的にヘテロを自認する青少年にとっては、これは恐怖以外の何者でもない。今俺の前で夢が無意識の願望だとか言う奴がいたら、取り敢えずガムテで口を塞いで縛り上げてやる。 ~
 黙々と活字に目を落とす長門を横目で見ながら、俺も本でも読んで過ごすかなと考える。少なくとも読書中は古泉の顔を見なくてもいい。 ~
 そう言えば昨日飛び起きて必死に唇を拭う俺を見ても長門は何も言わなかったが、勘付かれていたら舌を噛むしかないな。多分気付いても何も言わないんだろうがな、こいつは……。 ~
~
「考え事ですか」 ~
~
 コントみたいな大きな音を立てて、俺は仰け反った姿勢で椅子からひっくり返った。 ~
「何やってるのよキョン」 ~
「……何でもない」 ~
 ああ、何でもない。正面からあいつの顔が近寄ってきて、ちょっと囁かれただけだろ? 古泉のパーソナルスペースがえらく狭いのなんていつもの事だろうが。取り乱すな、俺。 ~
「大丈夫ですか」 ~
 古泉は席を立ち、机を回ってこちら側にやって来ようとしていた。いい、来るな。大丈夫だから。 ~
「そう言われましても」 ~
 尻餅を付いた俺の横に立って、体を屈めた古泉が微笑みながら手を差し出す。見上げる角度になるとますます既視感が……なあ、お前これ新手のいじめだろ。 ~
 俺は出来るだけ素早く立ち上がり、倒れた椅子を起こした。使われなかった古泉の手は、自然な動きで体の横に戻っていった。まともに古泉の顔が見られないので実際は不明だが、苦笑しているような吐息が聞こえる。 ~
「まだ寝惚けてるんじゃないの? あんた今日一限目から居眠りしてたでしょ。目の前で頭がガクガク揺れてると気になるのよね」 ~
 理由は言いたくないが色々とうなされてろくに眠れなかったんだよ、悪いか。俺はハルヒの小言を聞き流しながら、椅子に腰掛けた。向かいの席に戻った古泉が、俺の気分を解さず声を潜めて話し掛けてくる。 ~
「涼宮さん絡みでしたらご相談に乗りますが。そうでなければ、同じ男子団員のよしみでお話くらいは伺いますよ」 ~
 これだけは断言しておこう。今お前に話せる悩みなぞ心底何もない。ほっとけ。 ~
「僕ではお力になれませんか? 残念です」 ~
 肩を竦める古泉が今この場から消えるか、俺が猛ダッシュで逃げ出すか。どちらも実現不可能なこの状況下で、俺は古泉の言葉が聞こえない振りをしてやり過ごす他なかった。 ~
~
 今ハルヒ以外の神と呼ばれるモノが目の前にいたら、人を弄ぶのは止めろとそいつを蹴り付けてやっているかもしれん。……何故だ。何でこういう時に限って古泉は俺を呼び止めるんだ? ~
「ちょっとお話があるんですが」 ~
 帰り際、男二人が朝比奈さんの着替えの為に追い出されたタイミングで古泉はそう俺に声を掛けてきた。……ハルヒは何か用でもあるのか、解散のタイミングと同時に飛び出していった。朝比奈さんは先に帰っていていいと言って下さっているし、無言だが長門も同様で特に二人を待つ必要はない。従って俺がこの申し出を断る理由は概ね封じられている訳だが、今日は正直無理だ。古泉に何の話が有るのか知らんが、もう少し冷静になってからでないと確実にまずい気はする。 ~
「何かご用でも?」 ~
 有ったらそもそも部室には来てないだろうさ。ただ今朝愚妹に帰ったら勉強を見てくれとねだられている。天変地異並みの申し出だが兄としては早々に帰ってやらんとだな。 ~
「でしたら車でお送りしましょうか。その間にお話しさせて頂きましょう」 ~
 却下。問答無用で却下。『機関』とやらに俺は信用が置けそうもないんでね。……という事にしておこう。車の後部座席で二人並んで、なんて今の俺には発狂ものだ。半分は自分のせいでこんな状態になっている今の俺は、古泉に強く出られない。口実を探してためらう俺を眺めてから、古泉は踵を返した。肩越しに振り向いて、俺に呼び掛ける。 ~
「とりあえず行きませんか?」 ~
 俺を待たずに古泉は歩き出した。……何にしても靴を履き替えないと帰るに帰れない、か。従うつもりはなかったが、俺も古泉の後についていくしかなかった。 ~
~
 3m程度の距離を取り、俺は古泉の背中を眺めている。古泉は振り返らないが、足音で俺がいる事はわかっているのだろう。俺が隣に並ばないのを、というか古泉と帰りたがらないのを奴は不審に思っているだろうか。理由を考えたとしても正解には永遠に辿り着かないだろうから、問い詰められる前に昇降口でサヨウナラだがな。明日には無惨な夢の印象も多少薄れるだろう……か。古泉と普通に話せるくらいに精神的に回復出来りゃいいんだが。誰かエスナを俺に……。 ~
 窓の外に目を向ければ、昨日と変わらない雨雲と一体化した校舎の色が目に入る。そもそもはこの憂鬱な季節が元凶なのかもしれない。あの渡り廊下で誰かが窓を開けていなかったら。古泉があんな場所で目印みたいに傘を差していなければ。……天気にすら恨み言を言いたくなる。空いた手をポケットに突っ込んで、俺は溜め息をひとつ吐き出した。 ~
~
 登校時に濡れた靴が、まだ湿り気味で履きにくい。トントンと爪先を昇降口の床で叩いていると、人気のない出入り口の先に古泉の姿が見えた。さっさと行っちまえよ、という俺の期待は無論叶えられるはずもなく、古泉は傘を開く様子も見せず雨を眺めている。あいつは結構しぶといからな……この間は自宅まで来てたし。どう振り切るよ、俺。 ~
 出て行くのに逡巡していると、手持ち無沙汰にぼんやりしていた古泉が振り返った。一瞬驚いたが、古泉が見ているのは俺とは別の方向だった。片手を上げた先に、外から傘を差した女子生徒が走り寄ってくる。……その姿を見て俺の心臓は跳ね上がった。見覚えがあるレベルではない白い傘は、昨日古泉の傘と並んでいたもので間違いない。角度的に丁度顔が見えないのも昨日と一緒だ。古泉はニヤケた顔全開で話し掛けている。相手の女子の言葉に何事かを返し、更に笑みを深くした。 ~
 昨日の光景がフラッシュバックする。このまま又目の前でキスでもされたら、そしてまたそれを夢に見たりしちまったら、俺はどうしたらいいんだ? 未来有る少年にこれ以上トラウマを残すんじゃない、古泉。……と身構える俺をよそに、女子生徒はあっけなく身を翻して元の方向に去っていった。古泉はそれをのんびり見送っている。流石の古泉でも俺の前で自重したのか? ~
 視界の端で俺を捕らえたのか、古泉が俺の方に向き直った。俺は観念して古泉の方に歩み寄る。 ~
「帰りましょうか」 ~
 近付いた俺に片手を差し伸べて、古泉はそう言った。……だがな。これだけは聞いておかねばならんだろうよ。 ~
「今の奴、いいのか」 ~
 あの女生徒ではなく俺と帰るって事は、いわゆる「私と『機関』どっちを取るのよ」的な問いに対する答えとして仕事を取ったという事だ。あの子にどれだけ話してるのかは知らんが、思春期真っ只中の高一男子としてそれは間違ってると俺は思うぞ。だからとっとと彼女を追いかけて帰れ、お前。 ~
 古泉は俺の問い掛けの意味がよくわからないような顔をして、暫し俺を眺めていた。……何なんだこの間は。俺は去っていった女子が遠くへ行く前に、と気を揉んでいるというのに。 ~
「……ああ」 ~
 唐突にぽん、と古泉が手を叩き、妙に合点がいったような顔で俺に微笑んだ。 ~
「あなた、勘違いしていらっしゃいますね」 ~
 勘違い? ~
「僕と先程の方がお付き合いしていると」 ~
 違うのか? ~
「全く。良いクラスメイトとしての至って健全な関係ですよ」 ~
 ほう、そうか。良いクラスメイトとやらはキスする関係も含むのかね、と俺は心の中で突っ込む。こいつはにこやかな顔をして案外……って奴なんだろうか。ますます古泉がわからない。 ~
「つまりあなたは、昨日の放課後僕と彼女が一緒にいる現場を目撃されていた訳ですね」 ~
 古泉は片手を顎の下に当てて、俺を見ている。さっきのニヤケ面とはまた違ったいやらしい笑いだ。 ~
 図星を指された俺には、何も言う事はない。 ~
「僕と彼女の接点はあの時がほぼ初めてですから。今日のあなたの僕に対する態度はあからさまに不審でしたし、涼宮さんも不思議そうにあなたを見ていましたからね。あの場では話しづらい事なのかと思ってお誘いしたのですが……成る程」 ~
 古泉はふっと口元を緩める。 ~
「涼宮さんに何も言わないでいて下さった事には感謝します。あの後実際『機関』のミーティングが有ったので、今日の言い訳は全くの嘘という訳でもないんですがね。……さて、どこまでご覧になりましたか」 ~
 どこまでと言われてもな。……と言うか、今の古泉の言葉を検証するとなにげに最低な事実が見えて来そうなんだが。ほとんど接点の無かった女子に告られて即キスして、更に付き合うかどうかは保留中って事か。お前って……。 ~
 古泉は掌を上に向けて掲げ、肩を竦めた。そんなポーズには騙されんぞ。今後俺の知り合いでお前に懸想する女子が現れたら、キープ要員の一人にされたくなければ止めとけと精魂込めて掻き口説く事にする。 ~
「あなたの中では素敵なストーリーが出来上がっているようですが、一応僕にも弁解させて頂けませんか。……確かに昨日彼女に呼び出しを受け、告白されました。ですがあなたもご存じの通り、僕は特殊な生活サイクルで動いていますので、正直な所恋愛に手を回す余力がありません。『今は恋愛に興味がないのでお付き合いは出来ない』とお断りしました」 ~
 あの本気っぽい顔はその時だったんだろうな。そう納得しつつ、後の展開を考えるともやもやする。 ~
「彼女の返答は『一度だけキスしてほしい』でした。『それで諦める』と。あなたはその辺りをご覧になったのかもしれませんね」 ~
 それは言外に絶対諦めない宣言にも取れるが……で、お前はそれに乗っかった訳か。 ~
「しろって言われたら誰にでもするのか、お前は」 ~
 若干棘がある口調になったのは仕方有るまい。俺が言えた義理じゃないし据え膳を食うかどうかは個人の自由だとは思う。だが、古泉のキャラでそういう事を平気でやられるとこいつの本性がますます見えなくなって、不安になる。信用に足る人間なのか、と常に懐疑的でいるのは結構疲れるんだ。もう俺はお前を赤の他人と呼べるほど知らない訳じゃないつもりだが、結局はそれもお前が見せているポーズに過ぎないんだろうな。お前に関する俺の思考はずっと堂々巡りで……本当に、疲れる。 ~
「そう警戒しないで頂きたいんですが。……種明かしが必要でしょうか」 ~
 古泉は溜め息混じりにそう言って、俺の方に一歩踏み出した。押されるように俺は一歩後ずさる。 ~
「こう言ったんです」 ~
 古泉の手が俺の二の腕を掴んだ。自然な仕草で、体が引き寄せられる。昨日の古泉そのままの端正な笑顔が俺の耳元に近付き、鼓膜を震わせた。 ~
「……思い出はあなたを大事にしてくださる方と作った方がいいと思いますよ」 ~
 耳に掛かった吐息に、悪寒に似たものが背筋を走った。 ~
 俺の呼吸が止まった。 ~
「……っ、離せ馬鹿!」 ~
 俺は古泉を思い切り突き飛ばした。 ~
 ああ、古泉的にはどうでもいい事なんだろうさ。あの女子の告白も、俺に見られた事もな。だから俺にあっさり白状して、実演さえして平気な顔をする。ハルヒに関しては結構理解してるような振りをする癖に、お前自身は何でそう鈍いんだ? ~
「どうされました?」 ~
 数歩よろめいた古泉は、俺の行動が理解出来ないように首を傾げた。お前のそのニヤケ面がここまで忌々しく見えた事はないぜ。今、お前の声で俺の足が震えたなんて、お前には一生わからんだろうさ。わかられても困る。 ~
 だが俺は理解しちまった。こいつの上っ面だけの優しさがいかにタチが悪いか。それと同時に……どうやら俺はこいつの事が好きらしい、とな。 ~
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 自分でも信じられんが……古泉が、好きだ。 ~
~
 何でよりによってこいつなんだ。確かに見栄えは良いが、胡散臭い組織に属する妙な赤玉になる奴だぞ? そもそも男だ。どこがいいのかと自分に問えば悩んだ挙げ句に「顔」と答えちまいそうな自分にも幻滅だが、まさか自覚した途端絶望する事になるとは思わなかった。 ~
「失礼はお詫びしますが……具合でも悪いんですか? 顔が赤い」 ~
 古泉はハルヒ以外を見ていない。ハルヒに対する感情が神への崇拝だか人騒がせな創造主への恨み節だかは知らん。だが古泉の中心にはハルヒがいて、後はそれ以外の奴という区分しかないんだろう。古泉が過ごしてきた3年間を想像すれば無理もないとも思えるが、それはつまりハルヒ以外のどんな人間にも無関心になれるって事じゃないか? 俺とだって『機関』的にハルヒに対して影響力を持つ人間って事になってるから友人っぽい振る舞いを続けているだけなんだろうよ。 ~
「風邪ですか? 熱は……」 ~
 額に手が伸ばされる。触られる前に、俺はその手を払いのけた。手を引いて、古泉は少し剣呑な目をする。 ~
「どうしたんです、本当に。気に入らない事でも?」 ~
 気に入らないね。一番の問題は、こいつが誰よりも自分自身に無関心な事だ。人畜無害な振る舞いが相手によっちゃ致命傷になることだってあるのさ。例えばお前に好意を寄せている人間なんかにな。 ~
「……何でもない」 ~
 結局俺が口に出せたのはそれだけだった。ビニール傘を開き、俺は古泉の顔を見ないで外に出た。後から古泉が追ってきて、俺の横に並ぶ。 ~
「あなたのサポートも大きく見れば僕の任務に含まれますので。何か有るのなら仰って頂きたいですね」 ~
 そうか。なら……そうだな。小学5年生女子に分かり易く算数を教える為のコツでも教えてくれ。俺の頭は俺の可哀想な所だけ似ちまった妹の事でいっぱいなんでな。 ~
 口から出任せに俺がそう言うと、古泉は一瞬面食らったような顔をした後に、頬を緩めた。 ~
「了解しました」 ~
 そう言って、古泉なりに俺の話したくないオーラを察したのか、俺の出したお題について馬鹿丁寧に解説を始めた。教材から勉強部屋の環境まで……お前どこかで家庭教師でもしてるのか、と疑いたくなる内容だ。 ~
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 この先ハルヒの状態がどうなるのかなんて俺にはわからない。またこの間みたいな事になって今度こそ帰れなくなったり、もしくはハルヒにあんな厄介な能力が無くなったり……考えられる未来は幾つもある。だが確かなのは、ハルヒに振り回されてる間はこいつからも逃げられないって事だ。俺がどれだけ嫌だと言ってもな。顔を合わせなくなってこの気持ちも自然消滅ってパターンはほぼ100パーセント無理だ。なら、ケリを付けるのはもう少し後回しにしておいてもいいか……と俺は思ってしまった。 ~
 友人の振りだとしても、それで結構傷付いたとしても……こいつの隣はそんなに居心地は悪くないんでね。 ~
~
 古泉の話は雨の音と同じくらい、永遠に続きそうな気がした。雨で煙った長い坂の先を透かし見るようにしながら、俺は帰ったら本当に妹の宿題でも見てやろうかと考える。兄貴の苦し紛れの口実にした詫びだ。快く授業を受けてくれるか? 妹よ。 ~
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- キョンと一緒にハラハラドキドキしつつ読みました…!この後どうなったのか気になる展開でした --  &new{2007-11-04 (日) 16:13:06};
- 文章うまいしおもしろかった!ありがとう! --  &new{2007-11-05 (月) 00:58:03};
- なんかキョンに惚れてしまう。かっこいいっす。 --  &new{2007-11-05 (月) 01:12:51};
- ドキドキしながら読みました!出来るなら本にして手元に置いておきたい程です。有難うございました! --  &new{2007-11-05 (月) 04:27:23};
- すごく…素敵です --  &new{2007-11-05 (月) 07:33:50};
- よかったよー。 --  &new{2007-11-06 (火) 13:40:51};
- 片思いせつない……よかったです! --  &new{2007-11-29 (木) 23:40:13};
- 最高です!表現も文章もうまいなー --  &new{2008-04-17 (木) 15:24:53};
- IMGYUEnzXB -- [[wtolwxnf]] &new{2008-06-26 (木) 16:25:42};
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