記憶喪失ネタ・後

 

 そう、俺だってほんとうは誰にも言えないコトで心を痛めているのさ。喉に引っかかった小骨ならまだいい。なのに森さんにとって深憂に変化させられちまったんだ。現状維持で、とたったいま告げた口で、森さんってば悲しいことも言うんだ。
 「でも、このまま古泉が普通の人間と結論づけざるを得ないなら、機関はそれなりの措置をとります。つまり、所属を外し、……忘れているんだから大丈夫だとは思うけど、少し精神操作して、その上で涼宮ハルヒと距離をとらせようと思うわ」
 かいつまんで言うと普通の男子高校生に戻す代わりに、ハルヒとかかわりがなくなるように転校させるってやつだ。ひどい話だと思わないか? 子どもってホントに力がねぇな。ハルヒがほいほいと納得するとは思わないが、機関がやるっつってんだ、やるんだろう。
 「そんな顔をしないで」
 どんな顔をしていたのか、あんまり知りたく無い。
 「でもね、考えてもみて。古泉のことを考えると、このままのほうが幸せなのかもしれないわ。貴方たちとの友情を失うのは悲しいことかもしれないけど、神人と戦うことなく普通に生活をおくることが出来るのよ。4年前に失ったものを取り戻せるの。そのためには涼宮ハルヒのもとにおいておくわけにはいかない――私たちもね、年端もいかない子どもに重荷を背負わせるのは、辛いのよ」
 俺は頷くしかなかった。ほかにどうしようもなくて、とりあえず頷きの格好をしただけだ。森さんの言うとおりかもしれない。正しいからこそ、どうすることもできない自分に腹が立ってくる。古泉おまえ、どっちがいい。選ばせてやるのが優しさなのだろう。
 それでも俺は元の古泉に戻って貰いたかったからな。これをエゴと呼ばずに何をそう呼ぶ。

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 週末は古泉をいるのかいないのかもわからないヘンテコな催眠術士のもとに引っ張り込むでもなく、長門にやらせるでもなく、街にいつものように不思議探索に出た。あくまでハルヒは辛抱強く待つ態度でいるらしい。もっかい今までやったことをなぞっていけば何か違うわよ、とな。
 焦っているのは俺だけのようで、しょうがないだろ、そろそろ余裕もなくなってくるぞ、これは。
 「キョン、あんた古泉くんに探索意義をちゃんと説明するのよ」
 お前じゃないんだ、わかるかそんなもの。ともかく、今日の探索は俺と古泉で男組だ。こいつのことも考えて、長門にこそりと要請した。ほんとうに俺ってば、気苦労の耐えないことだね。俺の横にでくの坊よろしくつったった古泉は、ハルヒの威勢のいい掛け声とともに歩き出す3人娘の背中に向かってひらひらと手を振る。
 「探索意義?」
 なんてねぇだろ。少なくとも俺は今までの探索には見出せなかった。
 「ですかねぇ」
 「いやお前、…」
 はぁ、とひとつ溜息。
 「もーいいって、敬語。ハルヒいねえし」
 俺の言葉に、躊躇ったように唇を歪める。ふむ。今日も満遍なく記憶ナシだなこいつは。もうひとつ溜息が出ちまう。
 「んん……」
 「古泉」
 「うん。……ありがとう。でも、慣れたほうがいいと思うので、このままでいきます」
 ふ、と笑みを浮かべる。自身満々なそれじゃなくて、もっと儚げで風に吹き飛ばされそうなやつだ。いや全然、前の古泉になりきれてないから。あいつうんとか言わないから。ああ、胸がしんどい。へんなもの見せるんじゃない。優しい女の子ならきっと私がついてるからね、などと恥ずかしそうに口走ってしまうだろう。変な空気になってしまったので、無意識にがしがしと後ろ頭を掻いていた。まあ、どっかで時間でも潰してようぜ。時間はまだまだあるからな。
 「あ、じゃあ今日は僕が奢るので」
 申し出にはありがたく甘えておく。

 野郎二人できれいなカフェに入っても仕方ないので、セルフのやつでカップ片手にオープンスペースに出る。こういう日、雨が降ったことがないのはハルヒのお陰だろうな。その名前の通り、とは言わないが、お天気女だから。ダブルミーニングでひとつ。古泉はどこか影のある美形面をどこか遠くに向けて、前髪を柔い風に靡かせる。俺は頬杖をついてそれを眺めるってかんじだ。別に変な意味はないが、見ることでちょっとでもこいつの気持ちを推し量ることができるなら、そうしようと思うのだ。なんせ時間がない。どんだけ残ってるのかわからないが、ないはずである。
 ふと、以前長門によってもたらされた改変の淵に迷い込んだときのことを思い出す。俺のことを知らないこいつに会った。美しい故に冷たく感じる視線に刺されたとき、どんなにか心震えたか、ほんとうは思い出したくも無いが、思い出してしまうものは仕方が無い。心細いのだ。あのときとはなにもかも違うと解ってはいるのに、たまにこうやって古泉を見つめるってのは、なんだか。
 視線は追うものじゃなくて、追われるものだったというのに。手を引かなくても傍らに居ると思っていたのに。「誰」だなんて、聞きたくもない言葉だったのに。
 なぁお前、どうして置いてきちまったんだ? そんなに俺たちはお前にとって負担だったのか。
 口にすることは出来ない。舐めるようにコーヒーを飲むことで、苦みばしった感情を誤魔化す。……甘すぎた。
 「僕」
 唐突に言うので、反応が遅れた。
 「ちょっと考えたんです。僕が思い出さない理由。忘れた原因はわからないから、そっち。違うかもしれないけど」
 「……なんだ?」
 「なんだか躊躇います」
 「すんな。言ってみろ。聞くから」
 じゃあ、と古泉はこちらに向き直り、真摯な表情で俺を真正面から見つめた。と、直ぐに目の奥に悲しみの光を宿すのだ。勘違いじゃない。俺はそれを見てしまった。首をぎりぎりと絞められるような、痛みを。互いの間を音叉のように反響する。いいからもう笑うな。
 「僕が思い出したくないから、だと思ってしまって」

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 探索は本当に何事もなく、言葉どおり何事もなく、終了した。じゃあまた明日、という約束にもならない約束のもと、俺たちはばらばらに帰途につく。俺は最後まで解散場所にとどまり、ハルヒたちの背中も、古泉の背中も、見送った。
 さっきの古泉の言葉が胸の中でぐるぐると回りまわって胸焼けを起こしそうで、とろとろと歩き出した足はそのまま家に向かわずに近くの公園に引き寄せられる。公園っつってもベンチとブランコ以外なにもなく、殺風景なそこに愉しさを見出せる子どもが居るはずもない。俺は当たり前のようにベンチを選んだ。
 「くそ、」
 くそ。なんてこった。色んな感情が行き場を無くして堪らない。


 「思い出したくない、って?」
 「そのつもりはない、つもりです。皆の気持ちもよく解る。だけど、なんか楽しくて。そのぶん辛くなってしまって。……ちょっとわかりにくいですよね?」
 言葉を選ぶように、視線を惑わす。流暢でない口調。困ったな、と一人ごちると、唇を舌で湿し、再び古泉が口を開いた。
 「記憶喪失のほとんどが、一時的なものっていうのは知ってますよね」
 「ああ」
 「うん、です。大抵は戻るんです。1日後かもしれないし、1年後かもしれない。僕がどんなストレスを負って健忘したのかはわからないけど、気が済めば治ると思うんですね。このまま逃避していかなければ。……でも僕は、このまま逃避しようとしているのかもしれない。逃避っていうのとは違うかもな……、」
 「古泉、」
 「聞いてください。……記憶障害の話に戻ります。……戻ったとき、僕はたぶん、僕のことを忘れるんです。今の僕のことです。記憶を取り戻したとき、失っていた間の記憶は無いんです。僕はそれが……嫌なんだと思う。皆が僕のことを見てるんじゃないっていうのは、わかっているのに、大事にしてくれているのは以前の僕のことだってわかっているのに、僕はわかろうとしていない」
 「ちょっと、待ってくれ」
 心臓をわしづかみにされた感覚ってのは、こういうのを言うんだろうね? 古泉は緩くかぶりを振って笑う。待たないつもりだ。待てよバカ。
 「一気に言わないと、もう言いたくなくなるかもしれないんです。聞いてください。僕は以前の僕のことを知らない。どんな奴だったのかわからない。だから、僕は以前の僕じゃないのかもしれない。僕は僕のことが羨ましいのかも。……楽しいんですね、皆といることが。涼宮さんの破天荒な発言が。朝比奈さんの気遣いが。長門さんの無言の言葉が。あなたが、僕にしてくれること、全部が。でも、僕はそれを全部忘れようとしなければならない」
 忘れたくなくて。
 やばい。
 何か言わなければ。こいつに。今まで何を見てきた。こいつは誰だと、何度も思ったじゃないか。古泉の殻に篭った何者かと。観察するように視線を寄せながら、何も見ようとしなかったのは此方だ。前の古泉よりもずっと本音で言葉を紡ぐこの古泉に、俺が言えることは何だ。
 ――何も無かった。
 「忘れちゃいけないことだったんだ。何か、まだ何か、ある。思い出さないといけないんです。でもひとつだけ、わかったことがある」
 混乱でぐるぐるしている俺がどんな顔をしているのかなんて知ったこっちゃ無い。その俺に、古泉はひたりと視線を向けた。久しぶりに見る揺るぎない瞳に、身動きがとれなくなる。たった一言だった。
 僕、あなたを好きですよ。


 風がブランコをギイ、と鳴らした。俺が泣けないかわりに鎖が軋む。

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 考えすぎて、布団に突っ伏しているうちに寝てしまったようだ。睡眠欲ってのは浅ましいものだね。どんなに心労激しかろうが、いや、逆にそのせいか。俺もまた逃避しようとしているのかもしれない。すごい夜だ。夕飯を食べ損ねた確率、100%。
 まあ、定時に食卓につこうが、今の俺は喉にご飯が引っかかってもおかしくない。
 昼間の古泉のことを考えると心が軋むのだ。ここにきて隠しても仕方が無い、正直になろう。
 あいつは前の古泉とは別の存在なのか? よくわからない。全く切り離して考えてもいいのか、それとも根っこは同じものなのか。前の古泉はいったいどこいっちまったのか。考えることがたくさんありすぎて、知識も思考能力も足りない俺のキャパでは処理仕切れない。長門なら少しは何か掴んでいるのかもしれない。でも、でもだ。もしなんらかのミラクルが起こって現状を全て理解したとしても、俺はどうすればいい。
 わからない。くそ。

 携帯が鳴った。はっとした。また頭ん中がごっちゃになって意識を手放しそうになっていたか。
 「僕です」
 古泉だ。こんな夜中に何かと、そういえば何か不便があれば連絡してこいと伝えていた。今までとくべつ鳴ることは無かったが。
 「なにもないです。あるといえばあるかな。こんな時間にすみません」
 「どっちだよ。いい」
 「ねぇ、少し出てきて貰えませんか。今下に居ます」
 窓にはり付いてみると、寸分違わず古泉だ。暗闇に反発する白いシャツの腕をあげて、手招きしている。古泉の口と、耳元から聞こえる言葉がシンクロする。
 「待ってます」

 服の裾から忍ぶ夜風が冷たい。古泉は何やら悟ったような表情で、玄関を出た俺に跳ねるように近づいてきた。薄く笑みを浮かべる口元に前の奴のそれと同じものを感じて、俺は思わず背筋を震わす。さらさらと流れる髪の先が月の光を反射してくっきりとかたちを保っている。妙な力を持つという、妖しい光に惑わされてるのかとすら思うね。
 「古泉」
 「やぁ、ごめんなさい。わざわざ。少しだけ話したいことがあって」
 「夜遅く、急にか」
 「ええ、今じゃないとダメなんです。最後に一言、お別れを」
 「は?」
 いきなり何の話だ。ちょっとまて。相変わらず俺はついてけずに置いてけぼりのロンリネス。まてまてまて。混乱してきているぞ。何が何と分かれるって?
 「僕とあなたが」
 真摯な瞳に揺るぎない決意を込めて、それでも口元は笑っているから、ああ、ほんとうに俺は混乱してきている。これは前の古泉じゃないんだよな?あのチワワのような、図体のでかい男にチワワもクソもないが、確かに色々忘れてきた古泉さんだよな。
 「記憶は戻ってません。うん、それは確か。でも、戻るかもしれないから、その前にどうしても会っておきたかった。わすれちゃいけないこと、手がかりが見つかった気がするんです」
 「手がかり」
 「手がかり」
 インコのように投げかけられた言葉の片端を繰り返すのが精一杯の俺だ。これでもなんとか理解しようと、今脳みそをフル稼働させているんだ。許して欲しい。
 「すっきりしちゃった。そういうことだったんですね。なら僕、もう何も思い残したくない。僕にはその力がないから……あるんだけど、元の僕ほど上手く使えないと思うんで、返します。全て。……僕、どうやら戦いにいかないといけないようです。それがわかる」
 そこですよ、すぐそこ、近くてほんとによかった、と誰も居ない道の先を指で示す。閉鎖空間の帳。たぶんそれを指しているんだろうと、いくら頭の足りない俺にもわかる。なんだ、こいつ。結局あそこに行かないといけないんじゃないか。灰色の静かな世界に。あれがどんなところか、こいつも知っているんだろうか。口に出すことのできない質問を舌の上で噛み砕く。お前がそっちを選ぶんなら、俺は何も言わないでいないといけない。
 こいつの意思に、俺の言葉が影響することのないように。
 「忘れちゃいけなかったことって、つまり、それだったんです。皆が大事だから、皆の居るこの世界を守らないと、いけない」
 さて、じゃあいきますよ、と古泉は困ったように笑った。今まで気付かなかったのがおかしいほど、かなしいくらいに古泉だった。

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 いつもと違わぬ朝が来る。
 その日、部室に訪れた古泉は元のソイツだった。ここいら最近の記憶はすっぱりと失くしてしまっているようで、ハルヒはそれ見なさい! と高らかに吼えた。
 「ね、私の言ったとおりでしょ? でもよかったわ! SOS団、活動再開ね」
 いや、十分活動してただろう、今までも。そんな言葉は喉元まででとどめておいて、朝比奈さんが入れてくれた芳しいお茶とともに飲み下す。俺の心の中なんて知ったこっちゃない暴君は、ぱしぱしと古泉の背中を叩きに叩き、気が済むなりかつかつと団長席についた。
 「もう忘れちゃダメよ!」
 きっぱりと言い切ると、そういえばねぇ、と昨日の不機嫌の理由について滔々と語り始める。古泉は苦笑いを浮かべながらへこへこと頭を垂れていたが、俺の視線に気付くとなにやら含んだソレを返してきた。なんなんだいったい、と言い切れれば気持ちがいいだろうね。大体解っているから心痛が来るのさ。

 「そのせつはお世話になってしまったようで」
 「してない」
 「またまた」
 「してねぇよ」
 「……僕が記憶を無くした原因ってのは、大体掴めてるんですね。自分のことなので。ほんとうにたいしたことじゃなくて……ちょっとだけあのとき僕にアタリクジがあたらなかったらどうなってたんだろうな~とか思っただけで。それとたまりに溜まったストレスが反応しちゃったみたいです。人間って怖いですね、簡単に記憶を書き換えてしまうものなんですね。いや、しかし僕の後釜が凶暴なやつで、貴方たちに危害を加えたりしてなくて本当によかった。記憶が戻るまえに命がなくなってしまってたら笑い話にもならない」
 「古泉」
 「ふふ」
 ああくそ忌々しい程に元通りだな。べらべらと余計なことまで。これはこれでなんだか少しがっかりするのは何故だ。チワワのように可愛かったお前はどこにいった? いや、かわいくはなかったか。
 「色々聞きたいことはあるんですが、まず、ひとつだけ……あなたこれ、どういうことです?」
 にこりと満面の笑みで掲げられたのはこいつの携帯で、液晶に表示されているのはメール本文。そこに表示されてるのは、見ずともわかる。いいから見せるな。しまっておけ。っていうか消せ、今すぐ消せ。
 何しろ他の誰でもない俺の書いたものだからだ。ぎりりりりり。


 夕べ。
 俺は目を閉じて突っ立ったままの古泉の元で、夜風に吹かれていた。だけど寒さはあまり感じない。僅かに色を無くしたように見えるのは、きっと気のせいなんだろう。あの灰色の世界が瞼の上に蘇るようで、瞬きの回数も減る。
 「古泉」
 返事はなし。こいつの中身は今、閉鎖空間で神人と対峙しているはずだ。記憶を無くしても影響するハルヒの力ってのは筆舌に尽くしがたいね。なぁ、怖いんだろう本当は。なんせ今までの経験がまっさらになっちまってるんだ。最初に戦いに出たときと同じように、不安なんだろ。なのになんでああも、毅然とした態度でいられた。そんなにも大事なことだったのか? 俺たちの世界を守ることが?
 当たり前なこと聞いてすまん。今まで耳タコなくらい聞かされたことだからな。まあ、心の中で尋ねるくらいは許してくれよ。どうせ聞こえないんだろう。全く何に対しても一生懸命な奴だ。かなしいくらいに。俺はゆっくり古泉の手を取った。いっぽんいっぽん指を浮かせて、ほら、お前の側に居るよ。わかるか?
 お前のことも、大事に思うよ俺は。心から。
 どっちもだ。

 「あれ、まだ居たんですか?」
 ぱち、と目を開いた古泉……どっちの古泉かは、わかるぞ。驚きの色で顔の表面を彩り、そんでから繋がった手を見て二度びっくりしている。憮然とした声になってしまったが、仕方が無い。
 「居たよ。悪いか」
 「や、そんなことは」
 かくりと首を傾げる仕草をする様子に、俺ってば胸の奥にどっと安心感が沸きあがった挙句、その場にへろりと崩れた。いきなり座り込んだ俺に引かれるようにつんのめって、結局同じように膝を折るのが気配で知れた。俯いてるから本当のことはわからないけどもな。
 「あ、じゃあ今度のこれが、ほんとうのお別れですね」
 「……なのか?」
 「はい」
 「そうか」
 うわ、顔見ちゃったら何も言えない。健忘したのはこっちじゃないのか。コミュニケーション能力よカモン、俺の元に宿れ。……まあ、いくら頭の中でこねくりまわしたって、こういうときはシンプルな言葉しか出てこないものなのさ。
 「なんつーか、元気でな。ってのもおかしい話か」
 「うんでもそれでいいです。ありがとう。楽しかった。大好きです。あ、でも……」
 先に言っちゃおう、といたずらっ子のように笑う。これがわかったから僕はお別れをいえるんです。
 「僕が気付くよりもずっとまえから、僕が隠していた気持ちなんですよ。これ。……この言葉の意味、わかります?」
 「……んー」
 頷きともうな垂れともつかない、曖昧な態度で悪い。可笑しそうにくすくすと息を紡いで、古泉は俺の耳元で短く答えを告げた。
 「僕は僕だ」


 古泉の軽やかな足取りをボンヤリと見送ったその直後、俺が慌てたように打ったメールは、短かった。なんせ変換すらしてない。オールひらがな。そんときは、今の古泉に伝えておかなければいけないと思ったのさ。やりかたを誤っただけで。ああくそ畜生、今になって果てしなく後悔の荒波に揉まれているんだから。何を聞かれても絶対言うものかとびっちりと貝のように口を閉じた俺と、手の中の携帯をためつすがめつして、かわいくないほうの古泉はふぅん……と思案顔である。もう勘弁してくれよ。さっきからどんだけソレ見てんだ。
 「おまえはおまえだ、おれもすきだ、ですか」
 「口に出すな」
 「……僕が、何をあなたに言ったのかは覚えてないのですが、どうやら……」
 「いいから忘れろ」
 「もう忘れませんからご安心を」
 にっこりと完璧な笑み。くそ、悔しい悔しい。おそらくこいつは、ああ、今のじゃない古泉のほうだ。奴はわざと消していかなかったんだろう。
 古泉一樹とはつまりそういうやつなのさ。


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Last-modified: 2008-01-30 (水) 23:21:10