教師キョン×生徒古泉? 朝比奈ミクルの冒険エピソード2


「ねえ、イツキ君。超能力見せてくれないかなあ」
朦朧とした意識の中でも、なぜかその男の声だけは淀み無く鼓膜に届いた。
—怖い。嫌だ。怖い。
反射のように体が震え、冷や汗が流れる。
もうこれで何度目になるか分からない詰問。
そして、もうこれで何度目になるか分からない暴行。
—僕にそんなこと言われたって、どうしようもありません。この力は、僕が望んで得た物じゃないんです。
僕は何も分からないんです。
こんなことをするのは、止めて下さい。
こんなこと、もう嫌です。
嫌です。止めて下さい。
稚拙な懇願が、嘔吐感を伴って胸を圧迫していた。
いっそ、本当にこう泣き叫べたら良いのに。
見苦しく暴れたり、汚らしく喚き散らしたり、抵抗する方法なんていくらでもあるのに、
それでも恐怖心より自尊心が勝ってしまう自分が忌々しかった。
バシッ————————!!
頬を張られる音が鼓膜を満たす。
疲労した身体が地面を求めるが、後ろ手を体格の良い男に戒められているので、それすらままならない。
だらりと俯いたまま悲鳴を圧し殺していると、乱暴に髪を掴み上げられた。

「……っ」
頭皮を鈍く貫く痛みに正面を向くと、自分を殴った男の顔が間近にあり、怖気が走る。
「ね、イツキ君。まだ超能力を見せてくれる気にはならないのかなあ?」
幼稚園児を諭すかのようなその口ぶりに、背中が粟立った。
どうしてこれほどの無体を強いておいて、この目の前の人物は全く邪気無く居られるのか。
逃げたい。身体が痙攣したかのようにガクガクと震える。
僕の身体を拘束している男が「ビビりすぎだし」と洩らし、耳の後ろ辺りで嘲笑した。
「以前に見た時はねえ」
すすすっ、と前髪から頬、顎、首という経路で手を移動させながら、小さな男が饒舌に告げる。
「なんか窮地ってかんじでねぇ、それで君があの子—朝比奈ミクルを助けるために超能力を発動させて…」
僕を殴った手が素早くネクタイを引き抜いた。
「あれは綺麗だったなー。うん、綺麗だった。力の奔流っていうの?だからもう一回見たいなって思って」
無遠慮な指が、僕の制服の袷に引っ掛かり、ばつばつばつっと勢い良くボタンを飛ばした。
唐突なその行為に羞恥心が沸き上がり、前を掻き合わせようとするが、後ろの男に阻まれ、それは不可能となった。
先ほどよりも強く戒められた腕が軋むように痛み、唇を噛み締める。

「ふふ、ねぇこれって窮地じゃない?窮地窮地窮地窮地っ」
顎を凄まじい力で掴まれ、うっかり「痛っ」と悲鳴を上げると、その男は幸福そうに微笑んだが、
切り替えたかのように直ぐに瞳を残忍な色に変え、
「それとも、このくらいじゃまだ窮地とは言えない?」
と、シャツの内側に手を差し込み、僕の上半身を撫で擦り始めた。
「……!!」
止めて下さい!!心の中で悲鳴を上げるが、それはどうしても声にはならなかった。
奥歯を噛み締め、懸命にその行為に耐えよう試みる。
こんなこと大したことじゃない、こんなこと大したことじゃない、と繰り返し自己暗示をかけ、
平常心を取り戻そうと努力する。
心臓が早鐘のように打つ。いっそ破れてしまえばいい。
眉を寄せ、ぎゅっと目を閉じていると、男の顔が接近してくる気配がした。
胸元、首筋に自分以外の体温を感じて吐きそうになる。
フー、フー、と歯の間から息を洩らすだけになった僕に、男は笑みを含んだ声でとどめを刺した。
耳に押し付けるように寄せられた唇が蠢き囁く。
「もっと、ひどくしないと駄目かな?」

恐怖で頭が狂いそうになる。
「これ以上のひどいこと」を想像して、いくらでも候補があげられる自分が嫌だった。
涙が零れそうになるが必死に我慢する。
こんな超能力なんてなければよかったのに。
どうして僕にはこんな力があるんですか。
どうして僕が選ばれたんですか。
これは何かの罰ですか————神様。
男の手が恐怖を煽るかのように緩慢に、僕のズボンのベルトにかかった。
懸命にもがきながら「止めて、止めて下さい」と壊れたラジオのように拒絶の言葉を繰り返す僕を、男が嘲笑う。
後ろ手を拘束していた男が、手持ち無沙汰になったのか、僕の手首を片手で戒め、
開いた方の手で尻を撫でたり鷲掴みにして、こちらの反応を伺ってきた。
背筋に悪寒が走る。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
ズボンの正面が暴かれ、腰周りにゆとりができると、男は躊躇すること無くその隙間に手を差し込んできた。
肌を蹂躙する動きに懸命に耐えながら、僕はこんな風に追い込まれても、取り乱したりできない自分を呪った。
ほんとに、意識のひとつも失えたら楽なのに…
諦感の念でぎゅっと目を瞑る。
身体中あちこちが痛いし気持ち悪い。
でも、もうどうでもいい……

「あきらめてんじゃねえコラ古泉!!!!」
何処かから声がした。

はた、目を開くと、僕達から5メートルほど離れた位置に一人の男が佇んでいた。
「………先生…?」
はじめは自分の目が信じられなかった。
何故あなたがこんなところにいるんですか?
しかし、それが本物の彼だと認識した瞬間、安堵が心の中を満たし、
けれど、こんな場面を見られたくは無かったと、どうしようもない羞恥心が込み上げてきた。
全力疾走してきたかのように息を切らせた彼が、怒気のこもった瞳でこちらを睨み付けている。
「誰だか知らんが、古泉から離れろ」
いつもだらしない襟元を、息苦しいのか更にだらしなく調整しつつ、こちらへ無遠慮に接近してきた。
「先生、先生、先生、せんせ……いっ?!」
まるでその単語さえ唱えていれば幸せになれるといった調子で、彼を呼び続けていた僕は、ふいに声を荒げた。
「古泉!?」
僕の身体をまさぐっていた男が、爪を立てて太ももを鷲掴みにしたからだ。
男の握力が柔らかい肉に食い込み、激痛が走る。
「はいはいはい、それ以上近づかないでね〜」
常の僕を凌駕する営業スマイルで、男が先生と向き合う。
「君だれ?何しに来た人?これの何?」
これ、とはおそらく僕のことを示しているんだろう。未だに握り潰されたままの太ももが痛むが、
先生が心配そうにこちらを伺っているので、苦痛を顔に出さないようにする。
「その質問には一言で答えられるな」
「じゃ、一言で答えてね」ちらちらとこちらに視線送ってくる先生に笑いかけてみる。
僕なら大丈夫ですよ。

「俺はそいつの担任だ。そいつを、回収しにきた」
僕と男を交互に見やり、だんだん瞳が剣呑としてくる先生と対峙して、
悪びれること無く男は「それ二言じゃない」と笑った。
太ももに食い込んでいた指をようやく離してもらい、僕は荒く息を吐く。
「それで君、僕たちが嫌だって言ったらどうするの?って言ったらっていうか、フツーに嫌だけど」
男は腕組みをし、挑戦的な瞳で先生を見据える。
「そんなことは知らん。力ずくでも連れて帰る」
対する彼も、居丈高な物言いだ。
「できると思ってるの?」
「当たり前だ。2対2で、かつフィジカル面でもこっちの勝ちっぽいだろうが」
先生が不敵に笑う。
しかし不敵に笑っているのは男も同じで「そ?」と意味ありげに口の端を歪めると、
全力で僕の横っ面を張り倒した。
「な!!」
予想外の行動に驚愕し、先生が声を荒げる。
拘束係と化していた男もこれは予想外だったらしく、僕は支えも無く地面に倒れこんだ。
当然受け身も取れていない。
それだけの余力が無かったのだ。情けないほど疲労しきっていた。
口の中に鉄臭い味が広がり、今の衝撃で何処かが切れたと知れる。
「古泉?!おい!!」
先生が駆け寄ってきて、地面に這いつくばったまま動かない僕を揺さぶる。

おそらく先ほどまでの僕から、ここまで消耗は推測できなかったのだろう。
茶色い瞳が心配そうに揺らいでいた。
ああ、駄目ですね僕。ほんとのことを言うのも、強がるのも、何もかも中途半端で。
「あの…すいません。大丈夫ですから」
とりあえず取り繕ったような笑顔を浮かべてみると、彼が口の中だけで「馬鹿野郎」と言ったのが分かった。
「例えば、今から喧嘩するとするじゃない」
天気の話でもするかのように、男が自然な調子で会話を始める。
「そしたらさ、それがそんなんだから2対1になるのは確実として、さらに君それ守りながら戦わなければいけない訳でさ」
先生が僕の頭を隠すように抱き締める。
「これ、そっちがすごい不利なの分かるかなあ?すごいハンデじゃない?」
確かにそうだ。訓練されてない人間が、足手まといを庇いながら戦うなんて不可能に決まってる。
ゲームなら別なんだろうが、これは悲しいことにリアルの世界だ。
おまけに、この人は至極普通の人なのだから。僕みたいなエセ超能力者とは違う、こんな妙な世界に居てはいけない人なのだから…。
「せ、先生、先生」
「なんだ古泉」
小さな声で彼を呼んでみる。
眉間に皺を寄せながら返事をするのが常の彼らしくて、そんな場合じゃないのに笑ってしまう。
助けに来てくれて、ありがとうございました。
とても嬉しかったし、今も嬉しいです。
僕はもう、この気持ちだけでいいです。
ほんとにありがとうございます。

「本当に僕は大丈夫ですから、あなたはどうか安全圏へ」
顎に生暖かい感触が流れて、ああ先刻切れたのは唇だったか、と知る。
「この方逹も、そんなに無体を働かれる訳では無いんですよ。きっと」
詰問の際の暴行を思い出し、身体が震えそうになったが自制心をフル回転させてやり過ごす。大丈夫だ。上手く笑えている筈だ。
「用事が済んだら帰して下さると思いますし、明日の授業に支障はありません。ですから、どうか」
と、そこまでで、僕の演説は途切れてしまった。
かつ、しばらく演説再開の目処も立っていない。頭がうあんうあんしている。
なぜなら、頭に痛烈な拳骨を食らったからである。
もちろん先生によって。
「せ、せんせい?!」
頭を押さえたままでの抗議の声は、大分腑抜けたものになった。
しかしそれすらも、彼によって中断させられてしまう。
「こーんーの、馬、鹿、があぁぁぁぁぁぁ!!」
忘れてしまわれた方もおいでだと思うので言っておくが、先生は僕の頭を抱えているままだ。
頭がくあんくあんする要素がまた1つ増えた。
苛立っているような悲しんでいるような顔をして、僕から目を逸らすと、
先生は先刻の大絶叫に目を丸くしている男に、こう吐き捨てた。
「おい、教師として俺がこいつと変わる。だからこいつに手を出さないでくれ。いや、手を出すな」
あくまでも上目線だ。

なんで?!と思ったのは僕だけではないようで、飄々としたあの男も、
役割を無くして手持ちぶさたな男も口をへの字に固定していた。
しかし暫くして、男は何か思案するように目を伏せると、
「ああ、そうか、そういうのあったね。それかもしれないね」
と、何か納得したかのようにうんうん頷き、もう一人の男へ耳打ちした。
くるりと演劇じみた動きでこちらを振り向く
「じゃ、それでいこっか」
声の調子は軽薄なのに、その顔の表情の無さに戦慄する。
先生、やっぱり駄目です。
逃げて下さい。お願いします。
そう祈った殺那、その正体の読みにくい男が先生を僕から引き剥がして、地面に押し倒した。
叩きつけた、と言っても過言ではない。後頭部を強かに打った先生が、痛そうに顔をしかめていた。
「せんせ……あっ?!」
動かない身体に喝を入れて上体を起き上がらせたが、背中側から伸ばされた腕に髪を引っ張られ、横倒しになる。
ケラケラと下品に笑う声が背後で響いた。どうやら、もう一人の男にやられたらしい。
苛立たしい。しかし、こんな奴に構っている場合じゃない。
「先生!先生!先生!先生!」必死に先生を呼ぶ。
呼んでみたところで事態が好転する訳では無いのだが、さっきまで自分が耐えていたような暴行を、
先生まで受けてしまうなんて、想像するのも恐ろしかった。

ピエロのような笑いを浮かべた男が、先生のネクタイをほどきながら、耳元で何事かを囁いた。
寝転びながら雑誌でも読むような姿勢で、自分が組み敷いた男の顔をニヤニヤと眺めている。
「ふざけんな!!」
先生が腕を勢い良く振り、男に抗議すると、その腕を捕らえ、再び耳元で何事かを囁く。
自分が脅されたような文句を、あの人も突きつけられているのだろうか。
それだけで心が締め付けられた。
先生が舌打ちでもしそうな顔で、上半身を起こす。
聞こえなかっただけで、実際にしていたのかもしれない。
対面するように二人が座り、冷たい笑顔が先生の顰めっ面を見つめていた。
はぁ、と聞き慣れた、観念したかのような溜め息が聞こえ、
その次に僕の眼に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
先生が自ら服を脱ぎ始めたのだ。
呆然とする僕の目の前で、まるでここを脱衣場と勘違いしているのかと疑うくらい、潔くシャツを脱ぎ捨てる。
何しているんですか、あなた。
「何しているんですかっ」
心を上っ滑りするようなその疑問は、声に出してみれば酷く激しい語調で響いた。
先生は一瞬こちらを横目で見て、申し訳なさそうに目を細めたが、何か決意したように男の顔を睨み付けた。
あらわになった先生の上半身を値踏みするように男は眺め、
堂々とこちらを向き、勝ち誇ったようにフフンと笑った。
そして、そのまま、緊張した先生の顔に自分の唇を寄せ、貪るように口付けた。

見たくない。見たくない。
けれど、脳が伝達を拒否しているのか、僕はその光景から目を離せなかった。
常に一定の笑顔の男が、先生の後頭部を両手で掴み、窒素死でも狙っているかのような口づけをする。
呼吸するために男から逃れる先生の唇から、
ふ、あ、と苦しげな吐息が聞こえる。
男が匂いを確認するかのように首筋に顔を埋め、そのまま鎖骨や胸骨の辺りに唇を押し付けると、
その都度、ビクリと先生の喉が反った。
お願いします止めて下さい。
男は衝動的に愛撫を繰り広げているのに、ひどく冷ややかな目をしていて、
時々、観察するような瞳でこちらを見つめてきた。
先生の腕は、何かを堪えるように身体の横で硬直していて、
この理不尽な行為への抵抗を放棄している。
「痛っ!!」
先生のくぐもった悲鳴が耳に届く。
男が退屈そうな顔で、先生の首筋に噛みついていた。
痛みに顔を歪ませる彼に何の感慨もなさそうに、今度は鎖骨に噛みつく
「くっ」
噛まれた場所から血が滲んでいるが、それでも彼はぐっと目を瞑り耐えていた。
どうして。逃げたらいいじゃないですか。逃げてください。
自己嫌悪で死にそうだ。
どうして、その人が、こんな目に遭う。
どうして、その人が、こんな下らない人間のために窮地に陥らないといけない。
その人は素晴らしい人だ。
「普通」の人だけど、そんなこと関係ない。「普通」だとか「能力者」だとか、そんなことに何の意味なんか無い。
その人は………………!

—自己嫌悪が反転したかのように、男に対する憎悪が身体中を駆け巡った。
皮膚が細胞がDNAが漠然としていた「敵」を認識し、「守らなければいけないモノ」を識別する。
世界が切り替わるかのような、この感覚は—

血が沸騰しているように、身体が熱い。
ぞわぞわぞわ、と皮膚の上を何かが絶えず蠢いている感覚がする。
沸騰した血が蒸発したかのように、どす赤い空気が自分の身体を包み、
燐光を撒き散らしながら、だんだんと明度と彩度を上げていく。
いつもこの瞬間は、何故か少しの寂寥感に襲われる。
「ははははははははは、あーあ、これだよこれ」
先生を更に理不尽に扱いながら、男が愉悦を押さえきれずに、高笑いする。
今までの嘘臭い笑いでは無くて、本当の笑顔がそこにあった。
この男は歪んでいる。自分だって、人のことを指摘できるほど正常だとは思ってないが。
金縛りが解けた直後のように、身体を弛緩させた先生を見下ろすと、その目が驚愕したかのように見開かれていた。
ふ、と微笑んでみる。
微笑まなければいけないから微笑むのではなくて、微笑まずにいられないから微笑んでしまった。
きっと、これは作り笑いではない。
先生、これが僕です。
驚かせてごめんなさい。
でも、これが終わったら、もう本当に何もかも終わりですから、
最後にあなたを守らせて欲しいんです。
あなたがさっき、僕を守ろうとしてくれたように。

目を細めて集中すると、手のひらの上に光が収縮した。
妖しく発光する赤い玉は、分裂しながら太陽系の軌道やメビウスの輪を再現していく。
違う自分が自分を占領しているような違和感が背中を貫くと、
赤い玉が一気に拡大した。
別の世界にある座標と、この世界の座標を合わせ、標的を指定し、
赤く熟れた鮮光を、迷うこと無く、標的に打ちつけた—

どこかの空が割れたように空気が振動し、その場には僕と先生しか居なくなった。
強制的に人間を二人吸わされた空は、それでもいつもの空だった。
南天に境界を引くような灰色の亀裂は、まばたきの間に消滅していて、
きっとあれは、この世界では僕にしか見えないのだろうな、とそう思った。
「あっち」に行った人がどうなるかなんて、僕には分からない。
もしかして、正体不明の怪物の餌になってしまうかもしれないし、
「あっち」が消滅する瞬間に、消滅するのかもしれない。
最初から、そんなもの無かったかのように。
瞳の表面が水気を帯びるのを感じた。
「……古泉」
背後から、様々な感情が交錯したような声が響く。
ああ、この人が僕の名前を呼んでくれるだけで、なんてこんなに心が満たされるのか。
先生、ありがとうございます。
ほんとに
ありがとうございました。
「なんですか」
意識的に低い声を出す。
「いや…大変だったな、大丈夫…じゃないか。そうだ、怪我、手当てしないとな」
「余計なお世話です」
顔を能面のように無表情に作り替え、彼を振り返り、見なければ良かったと後悔する。
裸の上半身のそこここに、痛々しく痣やキスマークが散っていた。
瞬時に良心の呵責に苛まれるが、心を鬼にして、さらに言葉を続ける。
「あなた何様なんですか。さっきの僕を見なかったんですか」
自分の顔が不必要に整っていて良かったと、こんなに感謝したことはない。
きっと今の自分は、人外の存在であることを上手く演出できてることだろう。

「…こんな高校の教師風情が、何もできやしないくせに。ただの人間なんですから、いい気にならないで下さい」
自分の選民性を匂わせつつ、彼がいかに愚凡な存在であるかを強調してみる。
その言葉を聞き、怒ったように先生は目を見開いた。
良かった。成功したようだ。
「顔を見せるな、とまでは申しません。学校がありますからね。ただ、僕には極力関わらないで下さい」
冷酷に吐き捨て、その場を立ち去ろうと歩き出す。
これで良い。これでもう何もかも本当に終わりだ。
あなたは「普通」の人だから平凡の中にいるのが相応しいのだ。
平穏な世界で安穏と生きていればいい。
平穏な世界で安穏と生きていて欲しい。
平穏な世界で安穏と生きていなければ嫌だ。
最後にもう一度振り返ると、彼はまだ怒りが宿った瞳でこちらを睨み付けていた。
あーあ、恨みがましい人ですね、と少し可笑しく思う。でも、こんな敵意の視線であっても、僕にとっては最後のあなただ。
僕を睨み付る瞳を、吸収するかのように正面から見据えた。
さよなら、先生。
僕は今日のことを忘れません。
致死量に近い哀しみが胸に拡がる。僕が普通の人間だったなら、あなたと笑い合える未来もあっただろうに。
涙がせり上がってきたので、泣いてしまう前に彼から目を反らす。
さよなら先生。
これからずっと、さよならですね。
ここから迅速に立ち去ろうと、脚が動いた。

表面張力を凌駕した涙が、眼球から溢れ—
それとほぼ同時に、先生が僕の肩を強く引いた。
長時間後ろ手を拘束されていたため、瞬間的に体が強張る。
自分を拒絶するような態度に苛立ったのか、先生が
「おまえこら、こっち向け!!」
と、逃れようとする腕を一層強い力で腕を引き、僕の襟首を掴み上げた。
迂濶だった。この展開は想定していなかった。
あれだけ一発的に罵倒したのだから、逆襲の可能性も当然考慮して然るべきだったのに。
顔を精一杯伏せて、泣いている事実を隠蔽しようと試みる。
前髪が長くて良かった。フォローできる範囲内だろう。
奥歯を食い縛り、来るであろう衝撃に備える。
一番新しい情報として、野蛮に詰問された記憶が甦ったが、
瞼をきつく閉じ、それを遮断した。

しかし、そんな僕の頬に寄せられたのは、
無慈悲な拳でも平手でも無い、優しい両手だった。
頬を包む温かさに瞼を開くと、見知った彼の顔が、息が届くほど近くに迫っていた。
瞳から零れ落ちた涙が、先生の指の間を通過するが、彼はその滴を
「やっぱり泣いてんじゃねえかよ」と、煩わしそうに拭った。
胸に重石が積まれたかのように苦しい。
どうしてこんなにこの人は。
努力して嗚咽を隠そうとするが、さすがにこの距離では不可能だろう。
それでも、僕は頑なに先生を拒む。
そうしなければいけない理由があるから。

「あなた、僕の、言ったこと、聞いて無かったんですかっ」
先生の手を、ゴミか何かのように振り払う。
与えられていた温かさが、パタリと消失して、体が急速に冷えていく気がした。
止まること無く流れる涙を、淡々と袖で拭い続ける。
「もう、僕に関わらないでと、そう言った、んです。そう聞こ、えたでしょう?!あなたも!!」
かん高く裏返った声が、頭の中で反響している。
自分自身の感情を、ここまで制御できないのは初めてだった。
いい年齢して、みっともない。おまえの大事にしている自尊心はどこへ行ったんだ。
「古泉……」
先生も、こんな風に取り乱す僕を初めて目にし、当惑しているようだった。
これで、幻滅してくれたら楽でいいのにな、強くそう願う。
あなたのためには世界が必要で、世界のためには僕が必要で、僕のためにはあなたが必要で、
そんな風に求め合うのに、何かが何かを傷つけるから、僕たちは必ず何かを諦めなければいけない。
僕の場合、それはあなたでした。ただそれだけのことなんです。
「…先生」
つとめて冷静な声で演出する。それでも、蛇口の閉め忘れのように流れ続ける涙はどうしようもない。
「もう金輪際、僕に関わらないで下さい」
しゃくりあげそうになるのを懸命に堪えて、最後通告を叩きつけた。
意図的に相手を傷つける言葉を選別し、そして吐き捨てる。
「あなたは何の価値もない人間です。僕にとっても、世界にとっても」

べチーン。
間抜けな音が緊迫した場に反響した。
まるで、手拍子を打とうとした間にたまたま顔があったのでやっちゃいました、
と言わんばかりに、先生の両手が僕の両頬を自然に叩いていた。
逃げ場のない衝撃に、頭の芯がじわりと痺れる。
「信じない」
強い意思を感じさせる眼差しが、僕を貫く。
「…何をですか」
目を反らしたいが、顔がホールドされているので、その願いは叶わない。
この真摯な瞳の前で嘘を吐くことに、ひどく抵抗があった。
「まさか、自分自身に特別な価値があると、そう抗弁したい訳ですか。あなたなんかに…」
そこで、僕の言葉は途切れる。
顔に添えられていた先生の手が、そのまま両頬を左右に乱暴に引っ張ったからだ。
口の端にピリッと痛みが走る。
「そんなこと知ったこっちゃない」
ぐいぐいと僕の頬を引っ張りながら、悪さをした子供を叱る大人の顔で先生が言う。
「おまえ、自分の主張がなんでもまかり通ると思ったら、それは大きな間違いだぞ。
世の中、おまえに対して善意的な人間ばかりじゃないってことを覚えておけ!」

鼻が触れあうほど近くで怒鳴られ、許容量オーバーの音量に鼓膜が悲鳴を上げた。
この人は一体何を言いたいんだろうか。
早く意図を掴んで反論しないと、と思考だけが錯綜する。

「…おまえみたいな嘘つきな奴、誰が信じるか」
先生の顔が、何か思いだしたかのように歪む。
「大丈夫じゃないのに大丈夫なフリしたり、痛いのに何でもなさそうにしてたり
怖いのに笑ってたり…おまえ、嘘ばっかじゃねえか!」
拒絶しなくては、と思うのに、自分の本質がこの人を求めてやまなかった。
「だから…俺はおまえ言うことなんか、もう聞いてやらん」
この人の表情も声も所作も、ひとつ残らず受け入れられたら、と思った。
先生が捲し立てるように続ける。
「俺は、俺のしたいようにする。
おまえと話したくなったら話すし、関わりたくなったら関わるし、触れたくなったら触れる。
そんなこと、おまえなんかに命令される筋合いないだろうが。
…おまえの意見なんか、聞いてやらん!!」
頬にこめられた力が、どんどん強くなっていた。
口の中で血の味がする。もしかして、傷が開いたのかもしれない。痛い。
けれど、そんな些細な痛みよりも、彼が叫ぶように伝えてきた決意が、
僕の瞳から涙を流させた。
身体中が温かいもので満たされる。
僕がこの人を求めているように、この人が僕を求めてくれるなら、それはどんなに素晴らしいことだろう。
触れたい、と衝動的に思った。
けれど、触れてしまったら、もうこの虚飾を保てなくなるに違いない。
今にもこの人にすがりついてしまいそうになる自分を戒める。
「ひゃめれ、くらさい…」
ああ、もう嫌だ。なんなんですかあなた。
あなたがこんな間抜けな攻撃をするから、
真剣に拒絶しているのに、
なんかひゃらひゃら言っているだけで、なんか僕バカみたいじゃないですか。

「なんだそりゃ」
嘆息しつつ、先生が僕の頬からスッと手を離す。
涙がボロボロと溢れるが、もう隠そうとは思えなかった。
様々な感情が自分の中で混雑して咽を塞ぎ、声が掠れる。
「…だめ、駄目です。だめです」
目を見開いて首を振る僕に、「何がだよ」と先生が尋ねた。
「…お願いします。僕と関わらないで下さい。いけないんです、そんなの。お願いしますから…っ」
思考はすでに磨耗しているのに、この人を遠ざけようという義務感が、
僕の口から拒絶の言葉を繰り返させた。
「おまえなあ…」
先生が苛々したように手を振り上げたので、ビクリと肩をすくませる。
いい加減、一発くらいぶん殴られてもおかしくないものだ。
しかし、
彼は僕を虐げることなく
「人の話を聞いてなかったのか。馬鹿!」
と、ぶつくさ言いながら手を伸ばし、湿った目元を優しく拭うと、
「……おまえの話なんか聞いてやらないって、ついさっき言ったところだろうが!」
至近距離で、茫然としている僕を怒鳴りつけたのだった。
空気を読まない彼に心を揺さぶられながらも、頑なに僕は続ける。
「だ、だめです。聞いてください。聞いてください!」
「聞かない」
「僕とはもう関わらないで下さいっ」
「知らない」
「あなたなんか、必要ないって言ってるでしょう!」
「うるさい」
ひきつるような懇願を次々と一蹴しつつ、彼は流れ続ける僕の涙を、自分のシャツの袖に淡々と吸わせていた。
なんなんですかあなた。
人の話を聞いていないのはどっちなんですか。
頭に血が昇る。感情が高ぶり、嗚咽が止められなくなる。
自分の意見が通らないから泣くなんて、まるで子供じゃないか。
嫌だ。

「また…あんな怖い目にあうかもしれないんですよっ」
ポロリと本音が洩れる。
誠実でいることも、嘘をつき続けることも何もかも中途半端だ。
本当に僕は駄目な人間だ。ボヤけた視界の中、
「べつに怖いなんて言った覚えはないが」
呆れたような溜め息だけが、やけに明瞭だった。
涙でくしゃくしゃになった僕の顔を見て「ふん」と馬鹿にしたように笑うと、先生は
「怖かったのはおまえの方なんじゃないのか」
と、僕の頭を無造作に自分の肩口へと押し付けた。
「!」
唐突なその行動に、張り詰めていた心を折られそうになりながら、
それを堪え、必死に先生から逃れようとしてみる。
「やめ、離してくださ…」
しかし、
そう言って彼を突き飛ばそうとした瞬間、
僕は停止ボタンでも押されたかのように、そのままの姿勢で硬直してしまった。
先生が怯えるように震えていたからだ。
虚をつかれた僕など意に介さず、彼はスクラムの如き粗雑さで目の前の身体を抱き締め続けている。
ぐいぐいと背中や脇腹に圧力がかかる。
「怖かったか?」
耳元に、いたわるような囁きが届き、
「…ん、怖かったな。もう大丈夫だからな」
大きな掌が、子供をあやすように僕の背中をポンポンと叩いた。
鼻腔に先生の匂いが広がる。
—嘘つきなのはそっちじゃないですか。
どう表現したらいいかわからない感情が、今にも内側から心臓を破らんとしていた。
こんなに震えてるのに、怖くなかったなんて、どの口で言うんですか。
あなた、あなた馬鹿なんじゃないですか。
自分よりも大きな身体を、精一杯庇護しようとしているこの人が、
僕の目にはとても哀しい生き物に映った。
けれど、
どうしようもなく愛しくも思った。

「先生……」
この人を抱き締め返してあげたい。
頭の先から爪先まで、衝動が駆け抜ける。
けれど、僕の腕は制御装置がかかったかのように、ただ空中をさ迷っていた。
「古泉…」
そんな風に名前を呼ばないで下さい。
愛しくて、切なくて、頭がどうにかなりそうだ。
あなたを求めてやまないのに、どうしてこの手は、あなたに触れようとしないのか。
「古泉」
再び、いたわるような声が僕の名前を呼ぶ。胸が苦しい。
もう何も考えたくない。
もう何もかも手放してしまいたい。
先生が真面目な顔で僕の顔に近づき、血が滲む唇の端をペロリと舐めあげた。
「せんせ…」
自分自身の感情に翻弄され、茫然としている僕の背中を、先生がまたポンポンと叩く。
「痛かったな」
そして再び、消毒するかのように唇の端を啄んだ。

—理性が消滅する音がした。
気が付くと、僕はタガが外れたかのように先生を抱き締め返していた。
鼓動のように呼吸のように、こうすることは至極当然で、また自分にとって必要なことだと思った。
ごめんなさい。先生。
その小さな身体に過剰に力を籠める。
充足感に浸されながら、懺悔の気持ちがその身に溢れた。
あなたを守りたいのに、どうしたって僕は

自分自身のことしか考えられない。
あなたが平和に生きる世界を何より望んでいるのに、それよりも強く心に投影されるのは、
あなたと僕が一緒に生きていく未来だ。
「ごめんなさい先生ごめんなさい」
また僕は、あなたを傷つけるかもしれない。
罪悪感が胸を満たす。
けれど、癒着したかのように、自分の身体が先生を離したがらなかった。
この温もりを、もう手離したくなかった。
腕の中で、先生が身じろぎをし、
「何を謝ってるか分からん。本当におまえはひとりよがりだな」
と、嘆息する。
その気安い雰囲気に充足感をおぼえ、心の底に安堵が広がった。
「そういうの人間的にどうなんだ。進路指導だ進路指導。
貴重な休み時間を職員室で浪費させてやろうか」
教師らしい脅迫にかかるこの人が、可笑しくてしょうがない。
こんな風景がこれからも永遠に損なわれることなく、僕達と共にあればいいのに、と祈りにも似た気持ちが湧き上がった。
そう信じて疑わなければ、この願いは現実になるのだろうか。
ねえ神様、せめてこの人が僕なんかいらないと思うまで、
この腕を離さなくてもいいですか。
この温かさを受け入れてもいいですか。
視界の端に、血がにじんだ先生の首筋が映ったので、
もう僕は迷うことなく、必然のようにそこに口付けた。


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Last-modified: 2008-01-30 (水) 23:20:38