●第4章-1
(古泉モノローグ)

 新川さんの車でアパートまで送ってもらって、やっと帰宅することが出来た。
 結果はもちろん白。後ろ暗いことなど欠片もないのだから当たり前だけれど、森さんも新川さんも安堵したような、奥歯にものが挟まったような表情で、帰宅することを許してくれただけで謝罪などは無かった。
「ありがとうございました」
 助手席から降りて一礼すると、新川さんは穏やかに微笑んで会釈を返してくれた。
 いつもと同じ。だけどなぜか今日ばかりは見えない壁を感じてしまう。
 重たい気分を抱えて、階段を上がって、見慣れたドアの前に進む。
 窓からこぼれる灯りが妙に心を和ませ、でも同時に別なもやもやが心に浮上して、ノブを掴むのに一瞬躊躇が走った。
「……」
 小さく息を吸い込み、勢いよくドアを引く。
 部屋の中から溢れだす甘い香り。クリームのにおいだ。
「……遅かったじゃないか、古泉」
 不満気たっぷりの声が、台所から響いてきた。
「すみません、電話を切ったあと急に引き止められて……」
「それならもう一度電話をしろ」
 会長はキッチンから顔を出すと、僕を見つめて軽くにらんだ。すみません、と小さく謝りながら、奥の部屋に向かう。
 鞄を下ろし制服を着替え、再び顔を出すと、会長は湯気のたちのぼる食器をテーブルに運んでいるところだった。長身の彼がてきぱきと家事をこなす姿は似あっているようで、妙な愛らしさも宿していて、思わず笑みを零してしまう。
「なんだ? 着替えてきたなら手伝え」
「会長。エプロン似合ってますよ」
「ふふふ、いいだろう。下級生の愛らしい女子に作らせたものだ。……頼みもしないのに、ちょっと提案したら即効で作って持ってきやがって。そのうえ、写メとらせてくださいだなんて、冗談じゃないっつーの」
「だけど、着てあげるんですね」
「お前にしか見せんがな」
 夕食はクリームシチューだった。小麦粉とバターと牛乳を混ぜ合わせてホワイトソースからしっかり作ったのだと力説された。
 その苦労の甲斐あって、今まで食べたことのない素晴らしい出来で、僕は素直に感激した。
「……本当に美味しい。……こんな美味しいシチューは初めてです」
「そうだろうそうだろう。……っていうかお前、今までどんなもの食べてきたか少し気になってきたぞ? 何を作っても毎回その台詞だ」
 会長はシチューにちぎったパンを押し付けながら苦笑する。
「そうですね……食には疎くて」
「食は大事だぞ古泉。もうしばらくすればお前だって青春ニキビのひとつやふたつ発生するに決まっているんだ。栄養価の偏りはまったくもってよくない」
「生徒会室で女生徒を集めて、美容講座を開いているという噂は本当ですか?」
「む。……どこで聞いた?」
 否定しないんだ。
 僕はおかしくなってクスクス笑った。会長は大体いつもこんな調子だった。
 彼は彼なりに学校を楽しんでいる。
 自分の意思でない、他人が用意した椅子に腰掛け、そこでも十分楽しんで過ごしていけるというのは本当に彼のすごいところだ。
 あれだけ素行が悪かったのにもかかわらず、今では男子生徒にも女子生徒にも人気があり、教師からの信用も厚い名会長ぶりの誉れ高き人となっていた。
 もう以前のような人ではないのだ。
 どうしたら森さん達にわかってもらえるだろう。
「あれは……黄緑くんがあまりにもスキンケアについて無知なので指導してやっていたら、聴講させてくれと下級生たちまで集まってきただけの話で……別に講座などではないんだがな」
「……黄緑さんか……」
 それは無頓着そうだ。僕はますますおかしくなって笑い続けた。
「今日はよく笑うな」
 缶ビールを口に運びながら、会長も口元をゆがめる。
「そうでしょうか……? しかしその講座、一度拝見させていただきたいですね」
「実践する気のない奴には聴講させん、それより古泉、左腕どうした?」
「えっ?」
 僕は自分の腕を見下ろす。注射のあとに脱脂綿をあててはいたが、わからぬようにスウェットの袖で隠していた。
 会長はおどけて額に指をあてながら唸るように呟く。
「見える、見えるぞ、古泉。……予防接種でもしてきたのか?」
 言い当てられた僕は、さすがに少し顔色を変えた。
「……どうして?」
「帰宅してきたときにYシャツから透けて見えただけだ。機関で変な伝染病でも流行ったか? うつさんでくれよ?」
「はは……。血液検査を少ししただけです」
「そうか」
 会長はもう一口ビールを飲む。
「なんかあったんじゃないならいいさ」
「会長も珍しいですね……今日は、妙に探ろうとして……」
 いつもならそんなこと言わないのに。僕がどこで何を食べていようと、何をしていようと構わん、という人なのに。
 声を潜めた僕に、会長は苦笑をにじませながら溜息をついた。
「お前のほうが今日は妙に見えるけどな。おどおどと帰ってきたり、にこにこ笑ったり。まあ笑う分には構わんが、見ようによっては嫌なことを思い出さないようにがんばっているように見えなくもない」
「……」
「その注射跡もそんなに時間経っていないんじゃないか? 機関が何者なのか俺は知らんが、ただでさえSOS団で忙しいお前が血液検査を受けて帰ってきたとなるとだ」
「……」
 僕は会長を見つめた。
 彼は限られた情報の中から面白がって推理してみせているだけにすぎない。だからどんな結論に達するのか少しだけ興味があった。
 会長は見つめる僕を呆れたように見ながら、つまらなさそうに告げた。
「……俺の通っていたあの店にサツが入ったのと関係あったりするか?」
「ご存知だったのですか……」
「ご存知もなにも……」
 大仰に息をついて、テーブルの隅にあった携帯を手に取り、着信メールを眺めるフリをする。
「会わずともメールのやり取りくらいはしているダチもいるんでね。……あれは警察の誤爆ミスだ」
「ミス?」
「店がヤクの売買を容認していたわけじゃねーよ。ただ店に来るガキのうちの何人かはそういう噂があるヤツがいたのは事実だし、そのうちの一人を忙しい時バイトで雇ってたのも確かだ。店に黙ってそいつがウリカイしてたのが警察にばれてそうなっちまったってことらしいけど」
「……なるほど」
 会長は悔しそうだった。ニヒルな態度でごまかしているけれど、内心はもっと辛いのかもしれない。
 会長が僕に機関のことを聞かないのと同じくらい、僕もその店のことを聞かないし知らない。
 だけど彼にとってそこが以前の居場所だったことはなんとなくわかる。そこが気に入らない人の為に滅茶苦茶にされたのを知って、そこに駆けつけ、何の手助けも出来ない自分に苛立ちを感じてさえいるだろう。
「まあマスターがバカなんだけどな。あんなヤツ雇うな、って俺達はさんざん言ったんだ」
 携帯を握り締めて、会長は軽く唇を噛む。
「……そうだったんですか」
「店はもうダメだな。店員がヤクの売買に携わってたって話じゃ、あの街で営業することはもうできないだろう。まったく……クソすぎる」
「……」
 会長は額に手のひらを当てて、もうひとつ大きな溜息をついた。
 言葉にできない思いが少しだけ空気で伝わる。
 あの店に関わらないと約束したことを、今までに彼は後悔した瞬間があったのかもしれない。
「……」
 かける言葉も思いつかない。黙って見守るしかない僕を、会長はやがて顔を起こし、より皮肉めいた笑みを浮かべた。
「お前にも迷惑をかけたみたいだな、……薬物の検査をされてきたんだな?」
「……」
 察しがよすぎるのも考えものだ。僕は答えないことで肯定の意を伝えた。
 会長は傷ついたように肩を落とし、情けない顔をしてみせた。
「あの多丸ってやつは大喜びだろうな。俺がまたあそこに通いだすんじゃないかってしょっちゅうつけてやがったし。……バカにしやがって」
「会長が薬物などしていないことは僕が保障しておきました、それについては大丈夫です」
 僕は急いでつけ加える。それだけは何度も念押ししたのだ。
 こんな失礼な疑惑、彼に伝えるのも忍びなかったから。
 けれど会長は呆れたような表情を僕に向けて、くだらなさそうに言った。
「そいつは嬉しいな……だけど、古泉。お前は俺のことをどれだけわかってるんだ?」
「それは……」
 その店がどこにあるのかさえ僕は知らない。彼がそこでどんな友人と付き合い、どんな時間を過ごしてきたのか想像も出来ない。
 会長は缶ビールの中身を全部飲み干すと、立ち上がり、大きく伸びをした。
 そのまま隣の部屋に向かい、出しっぱなしにしてあったゲーム機を起動させ、その作業に没頭しはじめたまま、それから長い時間一言も口を利かなかった。

→→つづき(契約愛人9)


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Last-modified: 2008-03-19 (水) 17:18:44