●第6章-1
(古泉モノローグ)
アパートのドアを開く。今日も部屋の中からはクリームの香りが広がっていた。
キッチンのテーブルでは、エプロン姿の会長が頬杖をつきながら料理本を眺めていたが、僕が帰ってきたのでぎょっとしたような表情でこちらを見つめた。
「なんだ今日は早いな」
「……ただいまです。えっ、早いでしょうか?」
時計を見る。普段より一時間ほど早いか……。
「帰るなら電話をしろと言ってるだろうが。全く。今日はグラタンなんだぞ」
会長は何故か小さく怒りだし、椅子から立ち上がると、シンクの上にあったグラタン皿をオーブンレンジへと運び出した。
「すみません……うっかりしていました」
きっと僕が帰る時間に合わせて出来上がるようにしたかったのだろう。会長の小さなこだわりを無にしてしまったようで僕は恐縮しながら、靴を脱いで部屋に上がった。
「いや別にいいんだが。あと十五分は待ちまいだぞ」
レンジの中の皿に、緑の葉っぱを乗せながら会長が答える。
「了解しました」
僕は頷くと、隣の部屋に鞄をおろし上着を脱いでからまたキッチンに戻った。部屋着に着替えるのも面倒な程、何故かその日は会長と話がしたかったのだ。
漸くレンジの蓋をしめた会長の背中に僕は話しかけた。
「今日、学校に多丸さんが来ていたらしいですね」
「ん……ああ、まあな」
ダイヤルでタイマーをセットしながら会長が答える。
「検査をされたとか……」
「ああ、お前を疑うくらいならまず俺からすれば済むことだろ。人を馬鹿にすんなっての」
ピッ、と電子音が響き、レンジの内側に灯りが点った。会長は漸く顔をあげたが、僕をつまらなさそうに見つめて、シンクに向かった。
「多丸さんが会長のこと褒めてました」
「はぁ? なんでだよ」
褒めていたんじゃなかったっけ? ……いや、違う。あれは褒めていたんだと思う。
サニーレタスをちぎり、サラダを作りはじめる会長の側に僕は並んだ。
「変わったって言ってました」
僕の声を無関心そうに聞きながら、会長は出来上がっていたスープを火にかけ温めなおし、まな板でパプリカや玉ねぎを包丁で薄くスライスし、作りおいてあった手作りドレッシングをテーブルに運ぶように僕に指示した。
「……あいつに褒められても嬉しくもなんともないね」
「でも……」
今の会長に裕さんは好意を持ってくれたからこそ、僕に1日の休暇をくれたのだ。
だけどそれを告げようとして、口が止まった。
……あれ? その休暇を会長に告げるのはどうなんだろう。
つい、機関の人に、それも裕さんに会長が認めてもらえたようで嬉しくなってしまったのだが、それは僕が貰った休暇なのであって、会長とそれを過ごすかどうかはまた別問題……だ。
「でも?」
会長の視線が僕に向かった。
「あ……いえ、その……」
もごもごと口を動かしながら言葉を捜す。昨日されたばかりのこと、会長から告げられた言葉、今日一日の気分に重くのしかかっていたそれらが今になって記憶に蘇った。……僕は一体何を浮かれていたのだか!
「え、と……会長はクリスマスイブは何か予定があるんですか?」
頭に浮かんでいた単語を、なるべく穏便にやり過ごせるように並べて発してみる。
会長は出来上がったサラダをテーブルに運びながら、眉を寄せた。
「お前はまたあの下らん集団と、企みごとをしてるって言わなかったか?」
「そうです。ただ、あなたはどうされるのかなと気になりまして」
「まだ日があるし、特には決まってないが……」
何を言ってるんだ?と尋ねてくる鋭い眼光が僕を見つめた。心を覗かれそうな気分になり、思わず口ごもる。
会長は小さく鼻で息をつくと、スープの火をとめた。
それから立ち尽くしている僕をもう一度見つめる。
「つまりあいつ……あの多丸ってやつに何か報告を受けたわけだな。会長は変わった。少し以前よりよくなったと」
「……え、ええ」
よくよく思えば、会長にとってみれば失礼な話であっただろう。会長が機関に協力してくれているのは、観察される為でも、自我を改善する為でも無い。生徒会長として機関の意向に従って動いてくれさえすればいいだけの役目で、彼はその点において今まで一つも失策を犯したことはないのだ。唯一といっていいのが、最初の時点で判明した彼が同性愛者で、治安の悪い地域にある店への出入りが頻繁にあって補導の危険が認められる、ということだけ。
「……すみません……」
僕は肩を落とした。
自分がとても愚かに思えた。自由に生きていた彼を、その容姿と雰囲気がよいという理由で生徒会長の椅子に座らせたのは僕たちだ。好条件をつけて彼には納得してもらったが、それでも彼を問題視していた機関の人間から「よくなったな」と言われたところで会長が喜ぶわけがない。むしろプライドに傷がつく可能性だってある。
なんでこんなことに気づかなかったんだろう。浮かれていた自分が情けなくて愚かに思えてくる。
申し訳なくて息を潜めて佇む僕を、会長はやれやれと見つめ、それから肩に手をおいて、唇を重ねてきた。
突然だったから少し驚いたが、触れるだけのキスはすぐに遠のいていった。
「ばーか、別に怒っちゃいねーよ。それより俺も昨日は悪かった」
「あっ……いえ……」
思い出したら頬が染まった。肩に残った会長の手が妙に暖かい。ぼうっとしているとその両腕で抱きしめられていた。
「会長?」
耳元に低音が響きだす。昨日の夜と同じ切なげな音色で。
「あの多丸ってやつに頼んだんだ。お前を取り上げないでくれって」
「……多丸さんに?」
「あの店はもう無い。だから、古泉を解放しろ、って言われるんじゃないかと心配で先手を打った。俺はお前さえいれば問題は絶対に起こさないから、会長でいる間は取り上げないでくれってね」
「……会長」
言葉が胸にじわりと広がっていく。
その結果が、多丸さんのあの態度ということか……。思い起こしているとまた唇を塞がれた。今度はすぐには去らない。唇を割って会長の舌が触れてくる。
「好きだ……」
言葉よりも伝わる感情がある。交わろうと伸びてくる舌に僕はうろたえつつも応じた。
彼の心に応えられるわけじゃない。でも僕にできる精一杯で、彼の気持ちに向かい合いたい、そんな気持ちは僕にだってある。
特に今日は……。
多丸さんに見直させた彼に何かしてあげたいと思っていた。褒め言葉を伝えたところで、彼には伝わらないのなら、少しだけいつもよりも彼を受け入れてあげよう……そう思った。
だけど会長は意地悪なのだ。僕がやっと応じれば、いつもその倍を求めようとしてくるんだから。
「……ぅんっ……」
舌を絡めあうだけの口付けが、だんだん激しくなっていく。舌の奥まで絡めあい、混ざりあう唾液の音が淫らに響いて、脳を刺激する。目の前がスパークして白くなり、ついていけてるのかも分からない。
僕は会長の口付けにあっという間に翻弄されて、半分パニックになりながら必死で彼の舌に動きをあわせた。
「んっ……はぁ……ぅ」
寄りかかってくる会長の体重を支えきれなくて背中を冷蔵庫の壁に押し付けていたけれど、潜り込み口内を犯すように激しく蠢く深いキスの嵐に、体が熱くなり、頭がぼうっとして膝に力がだんだん入らなくなってくる。
ずり下がる体を支えようとしてくれたのか腰に会長の腕がまわった。と思った瞬間、急に持ち上げられてテーブルの端に横たえさせられる。
「えっ……会長……やだっ」
「変な想像するな。……キスだけだ」
会長は僕の腕を自分の肩にまわすように言って、それから被さるように再び唇を合わせてきた。
この体勢は少しやばい。行為がこれ以上に及ぶのではないかと危惧しながら、会長に応じ続けた。キス以上になったら困る……でも、何故か止められない。
湿った熱い舌が口の中を這いまわっていく。心地悪さに背中がぞくりとして、舌でそれを押し返すと、ねっとりと絡められた。
「ぅん……」
「……上手くなったな」
唇から頬に滑っていく舌を感じた後に降ってきた、からかう様な言葉に僕は会長を見つめ返した。
「上手くって……キスがですか?」
「ああ。これだけなら怖くないんだろう?」
「……怖いです……よ」
僕はじろりと会長を睨んだ。彼がくれる刺激はいつも、僕の知らないものばかりだ。
濃厚なキスの繰り返しに僕の体は芯を抜かれたみたいに力が入らない。こんなに無防備で他人の側にいるなんて、信じられない。
「何が、……怖い?」
薄く微笑し、会長が喉を舐め上げる。僕は息を吸って、会長の頬に触れた。
「……色々とです」
「ふぅん」
再び唇に会長が戻ってきた。くちゃくちゃと唾液が入り混じり音をたてる。
その卑猥な音色にまた体がじんと熱くなる。
会長がまた笑った。
「お前の体は結構いやらしいんだよなぁ。キスだけでこんなに熱くなるんだから……」
「……いやらしいって……」
「ここだって、もう熱くなってるだろ……ほら」
いきなりズボンの上から触れられ、僕は絶句して起き上がりかけた。
「やっ! 会長っ」
「わかったわかった」
ニヤニヤ笑いながら会長はすぐに手を離す。でもその指の形までわかるほどに熱くなり敏感になっていた己自身が憎い。
慰めるように鼻筋に触れるキスを会長がしてくれた時、ピーーーーッと電子音が響き渡った。
「ん、出来た」
「え?」
それがグラタン皿を放ったオーブンレンジの音だと気づくのに、僕は少し時間がかかった。
欠片も名残を惜しまず離れていく会長。手馴れたしぐさでミトンをとり、レンジの蓋をあけて香ばしく甘い香りの広がるグラタンを取り出そうとして、まだテーブルに仰向けになっている僕を横目で睨んだ。
「邪魔だ、古泉。あっつあつのグラタンを顔にかけられたくなかったら、さっさとそこどけ」
「……えっ!」
慌ててテーブルから飛び上がる。が、立ちきれずに座り込んだ。
……え、……だって。……その。
体に力が入れきれない。会長に握られたそこがまだ疼くくらいに反応してる。
「そこも邪魔だ、古泉」
会長は僕を蹴飛ばす勢いで近づいてくる。情けない顔になっていることを承知で見上げると、ぷっと会長は吹き出して肩をすくめながら言った。
「……続きは早くても食事の後だ、収まりがつかんのならトイレか風呂か行ってこい、古泉」
「えっ……」
「全く。昨日俺がイかしてやったのに、すぐにおっ勃てるんだから」
「!!」
なんて言われようだ。訴えたい気持ちは強かったけれど、確かにキスだけでこうなってしまうのは考えものだ。
「どうしてもというなら、そこでオナニーしてくれてもいいぞ。だが、俺の作ったグラタンが冷めるのは頂けない」
「……」
僕はなんとか立ち上がると、椅子に腰掛けた。
非常に居心地が悪いが仕方がない。こんなものそのうち収まるだろうし……。
複雑な僕の表情を見ながら、会長は心底面白そうにくっくっと喉を鳴らした。
これは何かの罰ゲームかという気分にもなる。
「あとでゆっくり全身を撫で回してやるから安心しろ」
グラタン皿を僕の前において、会長が囁いた。僕は眉を下げて、その人を睨んだ。
「……いやらしいことを言わないでください」
嘆息しながらも、彼の言葉に体がぞくりと反応していた。
言っておくけれど完全に屹立したわけではない。今まで彼にされた仕打ちはいつもキスだけじゃ済まなかった。だから体が勝手に期待してしまっているのだけのことだ。……自分の手も他人の手も借りずに熱をおさめるには時間がかかりそうだと、僕は内心ため息をつく。
そんな状態でもグラタンは大変美味しかった。
日増しに料理上手になり、家庭的になっていく会長。
それが僕の知っている彼だ。
毎晩のように夜遊びをし、奔放な性の関係を好み、僕の想像もつかない友人達と過ごしていた会長のことを僕は知らない。それは知らなくていいことだと考えている。
機関の人間としての僕、SOS団員としての僕、その次にプライベートの僕がいる。
彼がどうしても僕を欲しいと望んでも、与えられるのはその三分の一の僕だけ。期間限定だと知っていても、それすらも怖くて手放せないでいる僕に会長の何分の一を受け止めてあげられるのだろう。
だけど……。
「そんなもの欲しそうな目で俺を見るな、古泉」
パンをちぎる手で肘をつき、あきれ顔で会長が呟く。
「見てません!」
「……そんなにあせらなくても、あとでゆっくりしてやるから」
「結構ですっ」
……絶対、クリスマスの話なんて教えてあげるものか、とその時僕は、固く心に誓った。
→→つづき(契約愛人14)