古キョン 雨だれ †
雨だれ
その日は朝からじっとりとした蒸し暑さの日だった。重苦しい湿気でシャツが張り付く感覚が何とも気持ち悪い。雨は昨夜から降りそうで降らずに、そのまま放課後の時間となった。ハルヒはこんな日でも物ともせず週末の計画を高らかに宣言していた。例の、何が見つかるわけでもない不思議探検とやらだ。長門は相変わらずページをめくる手以外は石像のように微動だにせず本を読んでいて、汗をかいている様子すら見えない。こいつは汗腺や体温もコントロールできるに違いない。そもそも汗腺があるかどうかも疑わしいところだ。
それにしても何とも言えない湿気だ。暑さだけしもこの湿気のせいで日本はいかに過ごしにくくなっていることか。もしハルヒがこの暑苦しさに耐えかねたらもっと心地良い気候になるのだろうか。せめて部室の中だけでも。いやそんな気候異常が起きる前に、ハルヒはもっと現実的だがはなはだ物騒な手段でエアコンを手に入れてしまうに違いない。そのとき一番被害を蒙る人間は間違いなく朝比奈さんだ。いやそれは良くない。ハルヒが暑さを気にしないタイプであることを願う。…と言っても今日一日のハルヒの様子を思い起こすまでもなく、ハルヒは暑さを気にしないタイプであることは間違いない。いやそれどころか、暑さのエネルギーを体内に取り込んで熱エネルギーとして再利用しているのではないかという元気さだ。それではまるで光合成のようじゃないか。……まさか長門は光合成が出来たりしない、よな……?
と、ここまでだらだらと考えた視界の端でふと長門の視線を感じたような気がした。いや、まさか。大体そもそも理解出来ていない長門有希という存在に更に推論で謎を増やしてどうするんだ。
「……蒸し暑いですね」
そこに何とも良いタイミングで、目にも涼やかな夏ヴァージョンの可愛らしいメイド服を着た朝比奈さんがお茶を運んできてくれた。ふう、と溜息をつきながら、朝比奈さんはぱたぱたと手で扇ぐ。その何とも可愛らしい仕草に暑苦しさも和らぐようだ。その仕草にハルヒはふと気付いたように言った。
「ふう、確かに随分暑いわね。今日はここで解散! 皆明日10時忘れないように!」
雨が降っても来るのよ、と言ってハルヒは疾風のごとく部室を出て行った。
帰ろうとすると古泉が
「ご一緒していいですか?」
とこんな気候にも関わらず実に爽やかに声をかけてきた。
じめじめした帰り道をやる気なく歩いていると、冷たいしずくが落ちてことに気付いた。ついに雨が降り始めたのだ。これで少しは涼しくなるといいのだが。俺は鞄の中に入れておいた、使わずに家に辿り着きそうだった傘を取り出そうとした。
「おや、とうとう雨が降り出しましたね。夕方まで降らないと賭けていたんですが……賭けに外れたようです」
賭けに外れたって、要するに傘を忘れたってことだろ。
「そうとも言います。それはあなたも同じことでしょう? 蒸し暑い日でしたからね。少しは雨に濡れるのもなかなか心地良いことですよ」
いや、忘れてないと言おうとして俺は逡巡した。一人が傘を差してゆうゆうと歩いて、そばにびしょぬれのヤツが歩いているのも変だ。ましてやコイツと相合傘なんて真っ平だ。どうせコイツの家はもう少しなのだ。それから差してもいいか。……などと考えた片隅で雨に濡れるのも気持ち良いかもしれないと妙に共感しそうになった感覚を俺は傘と一緒に鞄の中に忘れることにした。
幸い、それほど雨もひどくならずに分岐点に来た。じゃーな、と言って帰ろうとする俺に古泉は声をかけてきた。
「あなたの家まではまだかなりあるでしょう。傘を貸しますよ」
と無邪気に笑いかける古泉に今更傘を持っているとは言えなかった。
傘を借りて帰ろうとすると古泉はちょっと気の毒そうに俺を見た。何だよその目は。
「随分ぬれてしまいましたね。着替えますか? 服は貸しますよ」
一人暮らしですし気兼ねは要りません、と古泉は言った。一人暮らし? 家族はいないのか。それとも三年前から?
「三年前からです。……服はこれでいいですか?」
案内しながら古泉は奥にある部屋の黒いローチェストからTシャツとジーンズを出してきた。
部屋も機関とやらに提供されたものなのだろうか。ごく普通の1ルームだ。顔に見合って室内も整っていて隙がない。抑えられたトーンでまとめられた家具。色があるのは大きさごとに並べられた本棚の参考書くらいだ。マンガとかエロ本とかないのか。定番はベッドの下か?
「どうでしょう」
古泉は声を立てずに笑った。
そう言えば俺はコイツのプライヴェートのことは何も知らない。別に知りたくもない。……たぶん。
俺は数日前の記憶を思い出していた。
それはハルヒのいない静かな部室でのことだった。淹れ立てのお茶を運ぶ、メイド姿の朝比奈さんの姿もなかった。その上長門までいなかった。いても分からないくらいなのにいないと妙に落ち着かない。そして古泉だけがいた。いい加減に飽きてきたが、する事もなくボードゲームに興じていると古泉が言った。
「もし僕があなたに恋をしていたらどうなるでしょうね」
なんだそれは。どうなるかって自分のことだろう。お前にはそんな趣味があったのか?
ちなみに俺にはない。
「いえ、ないですよ。ただもし恋をしていたらどうなるでしょう……という仮定の話です」
仮定にしてもなぜそんなことを考えるんだ。
「……。例えが悪かったようですね。長門さんが……。いや、やっぱり僕がということにしましょう。仮定の話なので最後まで聞いてください。僕があなたに恋をしていたらどうなるでしょう? 涼宮さんにとってどう影響が出るでしょうか。過去に朝比奈さんのことやミヨキチさんのことがありました。それを乗り越えて今、あなたと涼宮さんの間には信頼関係が出来ています。そして今、あなたと出会う以前に比べて彼女の精神ははるかに落ち着きを見せている。……そしてSOS団そのものもその中に組み込まれています。SOS団に新入学生が入ってくることはない。あなたもそれは感じたでしょう。そして現に今そうなっている。それは今このままの関係であることが安定しているからです。そこで先ほどの問いに戻ります。もし僕があなたに恋をしていたらどうなるでしょう? まず考えられるのは涼宮さんへ動揺を与えるのではないかということです。今このままの状態が崩れるのではありません。今まで涼宮さんが『こうである』と捉えていた状態が実はそうではなかったということが顕わになるのです。僕の存在が涼宮さんにとってどれほどの価値を持つのかは分かりませんが、僕も今のこの状態に組み込まれているようですから。普通の人でしたらそのような認識のずれはよくあります。例えばあなたは妹さんが生れたとき、妹さんに嫉妬しましたか? 自分のものだけだと思っていた母親が自分のものではないと気付くのです。世界は自分の解釈した通りの姿とは限らない。これは我々普通の人が何度体験しても痛みを伴うものです。それが涼宮さんの場合となるとどうでしょうか。世界は彼女の望むままとなる。無意識下で彼女はそれを知っていて、一方で常識としてそうではないことを知っている。涼宮さんが『こうである』と捉えていた状態が実はそうではなかったと気付くこと……それは普通の人としての感覚を取り戻すことかもしれません。それは涼宮さんにとって望ましいことなのでしょうか? 望ましくないことなのでしょうか? それから僕自身のことを考えてみましょう。僕の感情は果たしてどこから来たのか? 僕たちSOS団は三年前のことがなければお互い知り合うこともなかった。涼宮さんの傍にいて彼女から影響を受けている僕の感情の一貫性はどこで保証されるのでしょうか?」
古泉は話し終えると何を考えているのか分からない顔で笑った。「もし」を考えても仕方ないだろ。少なくともそう思うし、これはハルヒがどう望もうか関係ない。
「そうでしょうね」
会話はそれきり終わった。結局古泉が何が言いたかったのかはっきりしなかった。
……もし僕があなたに恋をしていたらどうなるでしょうね。
だからこの不毛な仮定を考えた理由は何なんだ。
気が付けば古泉を凝視していた。俺の視線に気付くと唇の端を少し持ち上げるような、笑いともつかない何とも言えない顔をして言った。
「何か僕の顔に付いてますか?」
目と鼻と口は付いてるな。
「服ありがとう。今度洗って返す」
玄関を出ようとした俺を古泉がじっと見ていた。自分がしておいて何だが、人に凝視されるのは居心地が悪い。何だ、さっきの仕返しか?
「……傘、貸しますよ」
俺は少しだけ動揺した。妙な嘘を吐いたせいだ。
「忘れるところだった」
俺は古泉からビニール傘を受け取った。
「……待ってください」
古泉はふたたび俺を止めた。今度は何だ?
「黙っていようかと思っていたのですが……」
古泉は静かな声で言った。その声は俺の心臓を叩いた。
「どうして傘を持っていると言わなかったのですか? 先ほどあなたが鞄を開けたときに見えました」
別に意味はないが、持っていたことを忘れてたんだと俺は言った。いや、言おうとした。なのに俺は馬鹿みたいに突っ立って古泉の顔を見ているだけだった。古泉は俺から鞄を取り、開いた。見なくても分かる、折りたたみ式傘が入っている。
「ほら」
古泉は鞄のなかの傘を指した。古泉は先の読めない目をして俺を見ていた。見ていた。見ていた。見ていた。俺の鞄は開かれ、隠されていたものは暴かれた。閉じ込めた記憶はふたたび一字一句よみがえり、より鮮やかに甦り叩きつけるように俺に襲い掛かってきた。
「入っている」
古泉は静かな声で言ったが、十分に熱した空気のなかで火花のように弾けた。不意に古泉は手を伸ばし俺の傍に手を付き、俺は身震いした。背から光を受け、暗い影を落とした古泉の顔はあるかなしかの笑みを浮かべていた。
「……感情の一貫性はどこで保証されるのでしょうか」
俺はその言葉にふたたび傷付き、怒りを覚えた。また痛みを鮮明に思い出す。
「俺の感情は誰にも保証されない」
俺は古泉を引き寄せるとぶつかるように唇を合わせた。
「好きだ」
古泉は何も言わずにきつく俺を抱き締めた。触れ合った箇所はすべて熱を帯びていた。たちまちのうちに熱は全身を巡り、俺の体も古泉の体も汗ばむほどに熱くなった。
「僕も……あなたを何より大切にしたいと思ってます」
古泉の囁きは耳朶を打ち、俺は足元から沈み行くような目眩を覚えた。
- 文章すごくうまい…GJです。湿っぽい感じが好みです。 --
- 結果的には言ったけれど、一旦は「黙っていようかと思っていた」古泉に萌えました。キョンの嘘もそうですが、そういう逡巡が、すごく彼ららしいと思います。 --