眩しい程に青い空、雲、風。
時間の流れというのは様々なものを変えてしまうが、10年前に見たこの景色は何の変わりも無い。 白いフェリーも、まるでそのままだ。
皆で輪を作った休憩所、兄が缶を手から溢れさせて落とした自動販売機、そして、二人が肩を並べていたデッキも。



その頃の私は兄が連れてきた彼に憧れを抱いていた。
古泉一樹。
兄は高校に入ると新しい友人達と連日行動を供にしていた。
彼もその中の一人で、初めて逢った時から幼いながらに惹かれていたのだ。
物優しげな瞳に、白い抜ける肌。誰しもを魅了する笑顔。
そして彼を目で追う間に気付いたことがある。
今思えばそれは、私がまだ小さかったからこそ気付いたんだろう。
彼のーー古泉くんの視線の先にいつも兄がいたこと。
それに対し兄の瞳にもまた、彼が映っていたことに。
周りは皆、兄は涼宮ハルヒと付き合っていると思っていたようで、そのことに気付いたのはどうやら私だけだったらしい。
それもそうだ。これは今になって分かることだが、どうやら実際に当時は涼宮ハルヒとそうなる様に努力をしていたようだ。
その頃の私には、それが何故かなど、知る由もなかった。


無理矢理、合宿と称した旅行についていったことがある。
正直に話すとその時の記憶は、もうあまりはっきりは無い。
それでもただ一つ。鮮明に覚えていることがある。
夜中に覗いてしまった、兄と彼の、重なる影。
薄暗い中で抱き合う姿を見ても、当時はその行為の意味が分からなかった。
しかし、それはとても甘美で、美しい、と。胸が騒いだ。
いつもの穏やかな様子とは違う、甘い声で囁く彼の声。
その声が、耳を離れなかった。
「キョン君は、古泉くんのことが好きなの?」
その旅行の帰り道、尋ねると、兄は複雑そうな表情を浮かべ、誰にも言うなよ、と付け加える変わりに否定することもしなかった。
そして私の頭に手を置き、髪をくしゃっとして、一言呟いた。
「お前でも、誰でもいいから一人くらい本当のことを知っていて欲しかったところだ。」


それから、暫くした頃だった。
兄が消えた。


普段と何も変わらない朝だったと思う。
起きて、一階に降りたそこには、兄の姿がなかった。
「キョン君もう学校行っちゃったの?」
一人分の食事しか用意されていないテーブルを見て母に聞く。
その問いに母はこう答えたのだ。
「…何言ってるの?キョン君って誰のことよ。」
最初は理解できなくて、母を問いつめた。確かに存在していた筈の兄のことを。
しかし母は私は一人っ子で兄などいない、と最後には私を心配した。
兄の部屋は空の部屋で何もなく、家の中に兄の痕跡は、何もなかった。
その日、私は兄が通っていた筈の高校を訪れた。
小さな私にそれは大冒険で、それでも、確認しなくてはならなかった。
兄が存在していたこと。そして、彼のこと。
校門で下校していく生徒を捕まえて兄のことを、彼のことを聞く。
誰も兄のことを知らなければ、SOS団というものの存在も知らなかった。
そして、彼のことを知る人もいない。
それ以上、私にはどうすることもできなかった。
私は、何か行動を起こすには、幼過ぎたのだ。


兄のことも彼のことも、何も分からないまま月日は流れる。
10年という時が過ぎ、私は兄の歳も超え、兄の顔も彼の顔も段々と薄れ、全てが私の幻だったと、諦めかけている時だった。
「…有希ちゃん…?」
SOS団の一人だった彼女と再会した。
「あなたに渡さなければいけないものがある。」
彼女は、10年という月日を感じさせない口調で話始めた。
「これを。」
彼女が差し出したのは、一通の手紙。
「あなたのお兄さんから頼まれたこと。彼が消失して10年経ったらこれを渡して欲しいと。」
「どういうこと…?キョン君が…?あなたはキョン君や古泉くんのことを知っているの?消失ってどういうことなの!?」
気がついたら彼女に掴みかかっていた。10年間の思いが、溢れる。
「10年前起こった世界の改変で彼と古泉一樹は存在が確認されなくなった。原因は涼宮ハルヒ。しかしあなただけが記憶を失わなかった理由は不明。」
二人の関係が涼宮ハルヒに知れてしまったこと。
そのことが世界を改変する原因になってしまったこと。
彼女が話すことは、到底私には理解できなかった。
何か冗談を言っているのではないかと思うが、二人のことを知っている人間は他にいないのだから、私は彼女の言うことを信じるしかないのだろう。
「読んで。彼はこうなることを予測してその手紙をあなたに書いた。」
そう言い残し、彼女は去った。
一人になって、手紙を開ける。
そこに書かれていたのは、間違いなく兄の字だった。


『これを読んでるということは俺はこの世界から消えているんだろうな…きっと、古泉も。
お前が俺たちのことを覚えてるかは確信がない。が、だたの勘ではあるが、忘れていないような気がしている。唯一俺たちのことを知っていた奴だからだ。』


自然と涙が溢れる。
確かに、兄は、彼は、存在していたのだ。


『俺たちは近い内にこの世界から消される。ハルヒを本気で怒らせちまったからな。
そうならない為にも気付かれないようにしてたんだが…もう限界のようだ。だから、この手紙をお前に残す。
だがこの手紙には何の意味も無い。この手紙を読んだところで俺も古泉ももうその世界に戻ることはないだろう。
これは、ただの俺のエゴだ。だから俺や古泉のことを覚えていることでお前を苦しめていたなら、ここで読むのをやめてくれ。
きっとお前は古泉に憧れてるんだろうからな。』

一瞬、手紙をめくる手が止まる。
兄は気付いていたのだ。それが私の初恋だったことに。
それでも、読むことはやめられなかった。
今ここで読まなかったら、誰も兄と彼が存在していたことを肯定できないのだ。

手紙のその先に書かれていたのは、高校に入学してからのSOS団のこと、そして、彼のこと。
それは、今までどちらかというと無気力だと思っていた兄の印象からは意外な内容だった。
一字一句から感じる、彼への愛情。
自分が消えてしまうことよりも、彼を消してしまうこと、彼への愛情が消えてしまうことが悔しいと。
しかし、それでも、彼と出会ったことを、彼と出会うきっかけになったSOS団と出会えて幸せだ ったと。


『悔しいとは思うが、後悔はしてない。だがな、やっぱり寂しいんだ。だから、こうやって手紙を残した。せめてお前だけにでも覚えていて欲しい…すまんな。』


「謝るくらいなら、記憶なんて残さないでよ…キョン君…」
俯くと涙が手紙に落ちて、文字が滲んだ。
その瞬間、封筒からハラリと一枚の写真が落ちる。
それは孤島で撮った、二人の笑顔の写真だった。




その手紙を受け取って数日後、私はあの孤島へと向かっていた。
兄と彼は、もう戻ってこない。その事実を受け止める為にも。
フェリーのデッキに上がり、兄と彼が並んでいた場所の手すりをなぞる。
風に吹かれる二人の姿が目に浮かぶが、それはこの世界では有り得なかったことなのだ。
兄から貰った手紙を再び取り出す。
そして、それを細かく破る。
一つ破る度に記憶が蘇る。
兄と彼の笑顔を。
重なる影を。
彼の甘い声を。
「…忘れないよ…」
呟き握っていた手を開き、紙切れとなった手紙は風に乗って散っていった。


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Last-modified: 2008-01-30 (水) 23:16:32