アンインストール

「少し、お話があります。この後お暇でしたらおつきあい願いたいのですが」
 そう言った古泉はいつもの人畜無害なハンサムスマイルで、この後俺が体験するやたらとヘビーな展開なんぞこれっぽっちも予想できるシロモノじゃなかった。
 どうせハルヒの話なんだろうな、ってのが常識的な判断だ。
 よりによってその日はハルヒが岡部とやりあってカリカリしてたし、古泉が携帯をちらっと見て嫌そうな顔してたのも俺は見ていたからな。だから俺は素直に了解したんだよ。その後の古泉の爆弾発言やらなんやらをこれっぽっちも想像できずにな。仮に予測できていたとしたら、断固付き合わなかったことだろうがね。


「……で、話ってのは何だ」
 連れられてきたのは、学校からさほど離れていない公園だ。あれだ、「朝比奈ミクルの冒険」の撮影にも使った公園な。
「あの、少し目を閉じて頂けますか?」
 古泉は、友達を遊びに誘う小学生のように楽しそうに言った。だがこいつがそんなことを言う時には断じてそんな気楽な事情が絡んでいるわけもないことを俺は知っている。わかってしまうからしょうがない。別にエスパー的な力でわかるわけではなく、単に経験上思い知ってしまっているからに過ぎないがな。
「……閉鎖空間か?」
 俺がそう聞くと、案の定古泉は爽やかに白い歯を光らせて「ええ」と答えた。
 それはわかった、だが何で俺が行かなきゃならんのだ。
「正直なところ、何の意味もありません。僕のただのワガママです」
 笑顔を維持したまま、古泉は胸を張って宣言しやがった。
「ワガママってお前……」
 俺が絶句したのも仕方がないだろう? ワガママってのはハルヒ専用の単語だと言ってもいいぐらいで、日々そのワガママに嫌な顔ひとつしないで唯々諾々と従っている古泉とワガママってのは、特殊相対性理論とうんこぐらいに無関係な単語だと思ってたからな。
 もし万が一に古泉がそれを言う日が来るとしても、こんなに悪びれずにあっけらかんと、かつ強引に言ってのけるとも思っていなかったことだし。
「聞いて頂けませんか? もちろん、あなたの身には何の危険も及びませんよ。今回の閉鎖空間は小規模で、神人の数も少ない。すぐに終わります」
「何でだよ」
「……ですから、僕の個人的なワガママです。寂しいから、と言い換えても構いません」
 寂しいってお前。
 高校生面下げて何を抜かすか、アホじゃないか、という言葉は呑み込んだ。別に呑み込んでやる筋合いもなかったのだが、脳天気そうな微笑みが、本当に寂しそうで痛そうなものにいつの間にか変化していたもんだからつい、な。
 そして俺は迂闊にも素直に肯いて目を閉じ、古泉に手を引かれるままに閉鎖空間へ足を踏み入れちまっていたのだった。
 もう金輪際、一生二度と体験したくないと思っていた、あの陰鬱なモノクロ空間へな。

 やっぱり来るんじゃなかった。
 目を開けた途端に俺は激しく後悔した。生命の気配のない、カラスの鳴き声ひとつ聞こえない空間。微かに遠く響くのは、ビルか何かが神人に粉砕されているのだろうおぞましい地響きのみ。まだ陽は傾きかけたばかりで半ば白く、半ばはまだまだ青かったはずの空は鉛色に澱んでいる。
 ……ああ、この空間は確かに寂しいな。お前には同志がいるらしいが、それでも寂しいかもしれないな。俺が何の慰めになるのかはわからんが。
「おつきあい下さってありがとうございます」
 だがどういうわけか、俺の存在は古泉にとって相当の慰めになるらしい。殺伐とした空虚な空間にはまるで似合わない、尻尾をちぎれんばかりに振る子犬の目で、古泉は笑った。
「……後悔してるぜ。これのどこが『話』だよ」
「いえ、話はこれから。とにかくここからでは遠すぎるので、もう少しご足労いただくことになります。済みませんね」
 古泉はそう言うと、先に立って軽やかな足取りですたすた歩き出した。
「へいへい」
 市街地を見下ろす小高い丘に登ると、うつろに赤く光る眼窩と口を開いた、青白く燐光を放つ巨大な人型のモノ――神人――…の周りを頼りない小さな赤い光が飛び回る姿が遠望できた。できなくてもいいんだが。というか二度と見たくなかったが。
 そこで足を止めた古泉が振り返り、再び口を開いた。
「……あの、お気を悪くしないで聞いて頂きたいんですが、」
 そしてにこにこと微笑みながら、頭に花が咲いてるんじゃないかって暢気な口調で爆弾を投下した。
「……実は、僕はあなたが大嫌いだったんです」
 時間が止ったね、というより空気が凍った。生暖かい暢気な空気が一気に氷点下だ。
 俺には逃げようもない閉鎖された空間、その暢気な口調と笑顔。古泉がサバイバルナイフを片手に襲いかかってくるんじゃあるまいか、と嫌な考えがうっかり頭をよぎり、俺は一気に2メートルばかり飛び退いた。
「ちょ……そんな話をしてどうする気だ。俺が嫌いなら、勝手に一人で心臓麻痺で死んで欲しい奴リストにでも名前を書いてりゃいいだろうが!」
 だが3メートルばかり向こうで微笑む古泉は、立ち止まったきり一向に動く気配がなかった。ただにこにこと虫も殺さぬような微笑みで、飛び退いた俺を眺めているだけだ。
「……ああ、誤解させてしまったようで申し訳ありません。今は違いますよ。だった、んです。過去形ですよ」
どうやら考えすぎらしい。まあ確かに、閉鎖空間内で古泉が殺る気になったら、100メートルの距離があっても無駄だわな。俺は色々諦めて再び距離を詰めることにした。さすがに3メートル離れて会話するのは話が遠くてやりにくい。
 しかしだな、過去形だってならますますワザワザ俺に言う必要はないだろう。バカなのか? いや疑う余地もなくバカなんだろうな。
 俺に頭の中身を疑われているにもかかわらず、古泉は相変わらず春の日だまりみたいにほこほこした笑顔を貼り付けている。
「……ああ…、そうなのか」
「ええ。ただ、知っておいて頂きたかったんです。どれほど僕があなたを……あなた方全員を、憎み、呪っていたのかをね」
 何でこんなところでそんな寝覚めの悪いことを聞かされなきゃならんのだ? しかも俺だけじゃないのか。だったら何故俺にだけ聞かせる?
「あなたにだけ、聞いてほしいんです」
 嬉しそうな顔で言うな。俺は嫌だしさっぱり意味がわからんぞ。
「……あなたにだけは気を許していいと思えるんですよ」
 ちっとも褒められている気がしない、というよりバカにされている気分だぜ。何せ俺は未来人でも宇宙人でもなくて、何の力も持たない人間だからな。
 そうさ、ここから出ることだって、神人がくたばるか古泉がその気になってくれなきゃできやしない。完全無欠の無力なただの高校生だ。
「ああ、俺はさぞかし脅威になり得ない安全な人間だろうよ、たとえ閉鎖空間の中じゃなくても、閉鎖空間の中でならなおさら、簡単に息の根を止めることだってできるだろうしな」
「いえ…ですからそういう意味ではないんですよ」
 古泉は器用にも少しだけ悲しそうに笑って肩をすくめた。
「……そうですね、こういう言い方はいささか陳腐な気もしますが、僕から見たあなたはもう親友と呼んでいい心理的距離にいると言っていい。あなたが僕をそう思って下さっているとまでは、自惚れられはしませんがね」
 自惚れられなくて有り難いよ。それでどれほどお前は俺達を呪ってたって言うんだ。そんなに恨まれるようなことを俺は何かやったか?
「いいえ、何も。ただ存在そのものが呪わしかったんです。……たとえば、僕は力に目覚めてからずっと、何も感じなくなりたかった。望まれるように、機械のようにただ戦い続けられるようになりたかった。ですがそんな風にはおよそなれやしません。僕が生まれも育ちもただの、生身の人間である限りね。いつも微笑むようにしていたって、僕には感情の起伏がある。泣きたくもなるし、腹を立てることもある。それでも笑い続けていなくてはいけない。怖くて逃げ出したいと思ってもそれは許されない。ですから初めて出会ったころの長門さんが羨ましくてね、とても憎かったんですよ」
 こいつは何を言っているんだ? 何がしたいんだ? 長門が羨ましくて憎かったとか、俺に聞かせてどうする気だ。
 静かな諦念に似た気配を漂わせている古泉の微笑みが怖い。
「……それから、ご存知の通り、僕は自分で覚悟したり納得した上で、任務としてこんな非常識な世界に足を踏み入れたわけではありません。ある日いきなり能力に目覚めていた。けれど誰も僕を守ってはくれませんし、むしろ否応なく自分以外の誰かを、全てを守るために自分の身を投げ出さなくてはならない。…だから、朝比奈さんが憎かった」
「……守って欲しかったのか?」
 朝比奈さんのように、たとえ俺にでも守られてしまうような存在になりたかったというのだろうか。朝比奈さんが聞いたらお怒りになられると思うがな。
「ええ、何の役にも立たない騎士でも、僕を守ろうとしてくれる人がいたらどんなに救われるだろうと思いました。けれど僕自身が騎士であって、姫君にも王にもなれはしないんです。どんなに怖くても、泣いてみても、僕は自分の力で戦わなくてはいけない。誰も僕の代わりにはなれない」
 その、何の役にも立たない騎士ってのは俺のことか。ふざけるなよ。だいたいさっきから朝比奈さんにも長門にも失礼すぎる。
 だが、古泉の憎たらしいほど澄んだ浅い色の瞳の表面が、微笑んだままで揺らいでいるせいで、俺は怒る気力とタイミングを失っていた。
 腹の奥に重金属をたんまり詰め込まれて呼吸も身動きも取れなくなったような嫌な気分で、ただ古泉の話を聞き続けることしかできない。
「……僕は、こんな力は欲しくなかった。こんな世界で戦う日々なんて欲しくなかった。僕じゃなくても良かったはずなのにどうして僕なんだろう、とよく思ったものです。なのにたった一人の少女の、ちょっと不機嫌になった、ちょっとイライラした、そんな下らないことで毎日死ぬか生きるかの戦いをやらなきゃいけないことに心底ウンザリしていた。どんな深夜でも、閉鎖空間が発生したらわかってしまう、目が覚めてしまう。暗い部屋のベッドの上で天井を見上げながら感じる、あの背筋がぞっとするような感覚のおぞましさも耐え難かった。そうならないように、彼女の必死に機嫌を取る毎日も嫌だった。彼女の望み通りの自分を演じ続けるのも。…だから、涼宮さんが憎かった」
 アーアーアー聞こえなーい! と両耳を塞いで走り出したい衝動に駆られたね。何だこの重たい話は。だがそんなことができるはずもなく、俺はただ古泉の話を拝聴し続けていたのだった。いっそのこと耳が聞こえなくなってしまえば有り難いところなんだが。
 だが聴覚検査で左右共に異常なしの俺の耳は自分の呼吸音や脈打つ音さえもやけにうるさく感じられるほどよく働いてくれて、古泉の話を一字一句漏らさず拾い続けてくれた。
「……僕らのことなんて知りもしない、世界の全てが憎かった。一時は全部壊してしまいたいとさえ思っていたほどですよ、世界なんかどうにでもなってしまえばいいと、崩壊でもなんでもすればいいと」
 淡々と語りながら、微笑んで握った拳を見つめる古泉の背後で、まるでその代わりのように神人が腕を振るう。ずん、と重い響きを立てて低層マンションが崩壊していく。そのマンションに押しつぶされて、小さな民家が紙細工のようにあっけなくひしゃげて消える。
「……そして、僕は毎日を、永遠に来ないヒーローや世界の崩壊を心の片隅で望みながら、平穏に退屈に、あくびを噛み殺しながら生きていたかったんです。……だから、その両方を手に入れたあなたが一番憎かった。世界の均衡の儚さを知りながら、突拍子もないプロフィールを持つ仲間を持ちながら、なのにほとんど何の責任も持たないあなたが。同じ歳で、同じ学校に通う、少なくともあの瞬間までは同じ立場だったはずのあなたが…、もし何かひとつボタンが掛け違っていたら、立場は逆だったかもしれないあなたが……」
 最後はほとんど溜息のように、古泉は声を絞った。俯いた顔にかかる前髪が揺れる。たぶん今は、こいつはもう笑っていないんだろう。
 こんな姿の古泉は見たくなかった。こんな、笑うこともできない、粉々に砕けて塵になっちまいそうな古泉なんて、はなはだ古泉らしくない。
 古泉ってのはな、もっとバカみたいにニヤニヤ笑ってて、どんな時でも余裕たっぷりでふてぶてしくて、俺をむかつかせる奴であるべきなんだよ。さもなきゃ敬語なんて今すぐやめて、普通に笑ったり怒ったり焦ったりするべきだ。こんな、回りくどいたとえ話もなしの陰気な話を弱々しくするなんて、全くもって古泉として間違っている。
「それで…、それで! そんな話を今俺にしてどうしたいって言うんだ! 俺にどうしろって言うんだ!?」
 俺は苛立ちと空気の重さに耐えきれず、ついに大声で吼えた。もう聞きたくない、もうこんな古泉を見ていたくない。笑え、笑えないならいっそ泣きわめけ!
「……済みません。全部過去形の話です。もう僕はそうは思ってはいません。本当ですよ」
 古泉は顔を上げ、俺の願い通りに笑ってみせた。秋の午後の陽に透かしたガラス瓶の中の水のような、曖昧で透明で不定形な、見ている俺が不安になるような微笑みだったがな。
 その背後で、倒壊した低層マンションに神人が両腕を叩きつけながら天を仰いで咆哮した。まるで今日だけはハルヒではなく古泉の心を代弁することに決めたかのように。たぶんそれは偶然にすぎず、俺が勝手に神人の行動に、見えない古泉の心境を投影しているだけなのだろうがな。
「ただ、聞いて欲しかっただけなんです。そうでないと……僕は、たぶん先へ進めないので」
 そしてそう言い残すと、古泉は己の身体の周りに赤い光を集めた。
「古泉!」
 光の放つ風圧に耐えながら名前を呼ぶと、古泉は微笑んだまま俺にちらりと目をくれて小さく肯いた。
「…大丈夫ですよ」
 そしてその表情を鋭く引き締めて、戦士のそれに変えて顎をくいと上げると、矢のように鋭く空気を切り裂いて飛び去って行く。
 昔の古泉が望んだように、恐怖や不安といった感情を一切消し去ったかのような姿で、それ自身には何の感情もなく、ただハルヒの無意識の鬱憤のままに動く、無慈悲で残酷な破壊衝動の化身――神人――の元へ。
「古泉、古泉…!」
 冗談じゃないぞ。日頃心情を吐露することをしない奴が、いきなりその手の話をしたあげくに敵に向かって突っ込んでいくなんて、この戦いが終わったら結婚すると宣言するにも等しいぞ。不吉なことをやるんじゃない。
 呼吸するように明滅するほの青い巨人に向けて大きく弧を描きながら吸い込まれて行った赤い光は、他の光たちともつれ絡まり猛スピードで神人の周囲を旋回し、その腕に胴にと何度も攻撃を繰り返す。もうどの光が古泉なのかもわからない。
 どの光も消えませんように。どの光も神人の攻撃を受けませんように。ひたすらに俺は祈り続けた。俺にできるのはそれだけだ。
 なあ古泉、過去形だって言ってたから今はそう思ってないんだろうが、言わせてもらうぜ。こういう時に何の責任も持たないってことは、何もできないってことだ。そうさ、親友が命がけで戦ってても、ただ祈る、せめて足手まといにならないように両足踏ん張って倒れないように立ち続ける、それ以外のことができないっていうことだ。
 こんなのちっとも良くないぞ、安易にこんなことを言うのもナンだがな、俺はお前みたいな力が少しでいいから欲しいと思うことがよくあるんだ。自分の無力さが悔しいことが、たまにはお前や長門を守ってやりたいと思うことがな。
「だから帰って来い、古泉!」
 俺の叫びと同時に、いつかのように神人の腕がずるりと切れて落ちた。
 そして神人は大きく身悶え、残った片腕を滅茶苦茶に振り回す。蛍のように頼りない小さな赤い光たちはその腕をかいくぐり、何度も胴に攻撃を加えているらしい。たぶん古泉も、あの中のどれかだ。
「古泉!」
 俺がこんなところで叫んだところで何の役に立つわけもないってことはわかっちゃいる。それどころか距離的に声が届くことさえおそらくはないってこともな。だがそれでも、俺は古泉の名を叫び続けることをやめられなかった。
 サッカーや野球の中継だって、テレビ越しで声が届くわきゃないのについ声援を送りたくなったりするだろ? それの、もっとせっぱ詰まったような感覚だ。そうせずにはいられない。そうしないと、赤い光が消えてしまうんじゃないか、古泉が死んじまうんじゃないかという、根拠はないのに俺の心を飲み込みそうになる焦燥感。恐怖と言ってもいいほどのな。
 だから俺は喉が潰れるかってほど叫んだ。叫び続けた。何度も何度も、こいずみ、と。
「古泉!」
 ずる、と重く湿った嫌な音が聞こえる気がした。もちろんそんなのは幻聴で、実際にそういう音がしていたとしても俺の耳には届かないはずだがな。だがそんな音が聞こえそうにゆっくりと神人の首がもげて滑り落ちていく。
 頭を失った神人の抵抗は急速に弱まり、目標を定めずただ頼りなく振り回されるだけになった残りの腕ももげる。最後に残った胴体は、それに続いてのたうちながら、自ら生み出した瓦礫の埃の舞う中に崩れ沈んでゆく。
「やった…!」
 その周囲を飛び回っていた光のひとつが、飛び去った時と同じように、大気を切り裂き俺の元へまっしぐらに飛んで来た。
「古泉…!」
 近くで見れば人間大の丸い光は、その内側に古泉を閉じこめたまま速度をゆるめてゆっくりと降りてくる。
「大丈夫か、怪我は……」
「ありませんよ、大丈夫ですと言ったでしょう?」
 まだ目元には昂揚した鋭い光を残したままで古泉は笑い、その微笑みと同時に身体を包んでいた光は音もなく消えてしまった。
「……良かった…!」
 最初に閉鎖空間に連れ込まれた時には、まだ俺は古泉とつきあいが浅かったし状況もよく飲み込めていなかった。ただただ非現実的な光景に呑まれ、呆然と彼らの戦いを見ているだけだった。
 だが今はそれなりに長いつきあいで古泉という男がどういう奴なのか知っていて、情も移っていて、どんな思いで戦っていたのかを聞かされていて、不吉な予感に苛まれてもいたものだから、前とは別の意味で、そして前よりもずっと、怖かったんだ。だから涼しい顔して無事に戻ってきた古泉を見た時、思わず飛びついてその身体を抱きしめたとしても仕方がないだろう。ないよな? ないんだよ。
「え、あの、……どうなさったんですか?」
「どうしたもこうしたもあるか! 畜生、脅かしやがって…!」
「……ええと……。あ、閉鎖空間が消滅しますよ、この周囲には人はいないとは思いますが、このまま通常空間に出るのは……うわ」
 暗い空に亀裂が走る。砕けて割れる。小さな偽物の世界が壊れてめくれて消えていく。だが俺にとってはそんなちょっとしたスペクタクルはどうでも良かった。ああ、どうだって良かったんだよ。古泉が無傷で帰ってきたってことの方が遙かに重要だった。
 それもこれも一方的に、ご丁寧に死亡フラグを立ててから戦いに行った古泉が悪い。
「……あの…」
 小鳥の鳴き交わす声、カラスの間延びした鳴き声、自動車のエンジン音、子供の笑い声、木の葉の風にそよぐささやきのような音、暖かい日差し、そして腕の中で身じろぎする暖かい体温、困惑気味の古泉の声。
 確かに俺達は普通の世界に帰ってきた。かすり傷一つ負わずにな。
「……すまん」
 急に鼻の奥が熱くなってきて、俺は慌てて目をきつく閉じたり開いたりを繰り返したが、なかなか目から鼻にかけての熱い痛みや喉の奥のひきつれは取れず、それが収まるまでは俺は身動きが取れなかった。
「……いえ、まあ別にいいんですけど…」
 ようやく我に返ると、えらく恥ずかしくなった。そりゃあこれが体育祭だとか、何かの大会の決勝戦だとか、血と汗と涙の結晶で勝ち取った勝利の瞬間だったりしたらどうってことはないだろう。しかし冷静に考えたら穏やかな夕方の道ばたで男の身体を力一杯抱きしめてる男って構図なわけで、しかも同じ制服着た高校生となりゃ不気味さ加減もひとしおだ。目撃者はいないようだがな。
「……俺が良くない」
 ようやく身体を放すと、古泉がやけに嬉しそうに笑った。
「そうですね」
 何を喜んでるんだか、古泉はやたらとニヤニヤしている。いつもの仮面じみた作り笑いじゃない、根っから嬉しくて仕方なくてこみ上げてくるニヤケ面を隠しきれないって感じの笑顔だ。
 何なんだ一体。気色の悪い。抱きつかれて嬉しかったとかじゃあるまいな?
「いやあ、ついてきて頂いて良かったなと思いまして。ご声援、嬉しかったですよ」
 そうかそうか、そうだよな、男に抱きつかれたことが嬉しくてそんなにニヤケてたんだとしたら色々と問題があるしな……って、冗談だろ!? あの距離で、あの轟音の中で俺の声が聞こえたってのか。
「……多少ですがね」
「……忘れろ!」
 忘れてくれ頼むから。忘れて下さいお願いします。
「いえ、これで今後の閉鎖空間での戦いが寂しくなくなりそうですから、大切に記憶しておきますよ」
 やめてくれ。恥ずかしすぎて穴がなくても掘って埋めたいぐらいだ。お前をな。だいたいお前が悪いんだ、あんな話をしていくから。
「……そもそもだな、寂しいからついてきて欲しかった、それはわかった。だがな、何であんな話を聞かせる必要があった!?」
「先へ進むために必要だったんですよ」
「先ってどこだよ?」
 軽く首を振って目にかかる前髪を散らし、古泉はまた頭のユルそうな微笑みをふんわりと浮かべた。
「……さあ、どこなんでしょうね」
「ふざけるなよ、あんな重たい話を一方的に聞かされた俺の身にもなれ!」
 いつもニコニコしてる奴があんな絶望的な思いを抱いていたなんて、今後俺はこいつのこの笑顔をどう思って見ればいいんだ? 本当は辛くて悔しくて寂しくてたまらない時でもそんなことをおくびにも出さずに笑ってるとしたら。
「……僕が、そういう気持ちを完全に捨てるために。僕は今はあなたが、SOS団が大好きです。ですが過去のそういう気持ちをまだ少し引きずっていましてね。あなたを、世界を、涼宮さんを守ることを、長門さんと力を合わせることを、朝比奈さんに協力することを、心から誇りに思えるようになりたかった。SOS団の一員として活動することを、心から楽しめるようになりたかったんです。そのために、全てを吐き出してしまいたかったんですよ……、言ってみれば、新しいアプリケーションをインストールする前に旧バージョンをアンインストールする行為に近いでしょうね」
 だからお前のたとえはいちいちおかしいんだよ。なんだそれは。お前はあれか、今日から古泉一樹2.0だとでも言い張る気か。そろそろ反撃するつもりなのか?
「どんな技を使うかは、秘密です」
 ウインクするな! 乗らんでいい! 気持ち悪い。
「だいたい俺はミダス王の床屋が掘った穴か何かか? 人を何だと思っていやがるんだ」
 睨んでやると、古泉はふわふわとアホっぽく笑いながら両手を広げた。
「とんでもない、その穴にはおしゃべりな葦がつきものでしょう? でもあなたはそうではない。だからあなたにしか話せなかったんですよ。それに、あなたにだけは本音を打ち明けておきたかったんです。僕の汚い部分も暗い部分も、全部」
 それからいきなり俺を抱きしめると、急にえらく真面目な声を出して耳元で囁いた。
「……あなたは、僕の大切な親友ですから」
 まあ、今日は息がかかるのは甘受してやる。有り難く思え。
「…アホか、俺にそれでドン引きされたらどうする気だったんだ?」
「結構危ない賭けでしたね。でも僕は賭けに勝てたようなので……いえ、実のところ、必ず勝てると信じていました」
 その背中を抱き返してやりながら、俺は思ったね。この俺の親友2.0はどうやら真性の大馬鹿野郎らしいってな。
「お前は間違いなくアホだ」
「ひどいですね…」
「アホをアホと言って何が悪い」
「ひどいですよ! 僕はあなたを信頼していると言っただけで」
「そこがアホだ!」
「……アホって言った人がアホなんですよ!」
 気がついたら俺達のハグはただのヘッドロックの掛け合いに変容し、それから何だかよくわからんじゃれ合いに発展していたのであった。
 ああそうさ、俺も紛れもない本物の大アホだ。それがどうした。どうせ俺達には熱い友情とかなんとか、それっぽいモノは似合わないのさ。
 俺達の間にあるのはたぶんもっと曖昧な……形も不確かで名前のつけようもない、何かだ。仮に親友と呼ぶしかないが、だが本当はもっとあやふやな何か。
 そういう、なんだか得体の知れない関係の方が俺達にはしっくりくる。


トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2008-01-30 (水) 23:15:56