記憶喪失ネタ・前

 

 世界を盛り上げるだか何だかな団に計らずも所属してしまったこの身においては、少々の驚くべき事象になんぞ一々驚いてなんていられないような今日この頃だったが、今回俺たちの前に舞い降りた不思議イベントはいつものそれとは少しタイプを異にしていた。
 例えるなら普段のが…普段とか言っちゃってる時点でかなりキている、正直そう思うが――そうだな、1等前後賞ものなら、今困ってるやつは3等賞ぐらいだろう。勿論3等でも十分高額当選の枠に当てはまっているしたとえ俺でも一千万の束を手にした暁には狂喜乱舞の末なにやら道を踏み外してしまうかもしれない。しかし今対峙している問題ってのは買いもしないくじ紙片なんかではないし、俺の胸に渦巻くのは喜びの類ではなくどちらかというと不快感だ。不快感と言ってしまうと語弊があるかもしれない。はっきりと言いようがない。まぁとにかく、困ってるってことでひとつ宜しく。

 端的に言おう。古泉が記憶を無くした。



 記憶喪失。はいはいよくあるよくある。ドラマや漫画では欠かせないアイテムだ。土鳩が白く染まるよりもずっとなんというか、ありがちなやつだが、実際起こってしまうと本当にどうしようもないな。手の尽くしようがない。しかも、当の本人はあんまり困ってる様子がない。得てしてこういうときに頭を悩ますのは第三者である。古泉のやつがどのタイミングで脳みそメモリーを消去したのかは推知するしかないが、今のさっきまで自分の置かれている状況を飲み込めてなかったのは確かだ。自分がなにを無くしたか気付かないままに、いつものようにのこのこと登校し、クラスメイトから訝しがられながらもとうとう突っ込んだことは聞かれずに一日を過ごし、のほほんと帰宅しかけたところを俺によって部室に連行され、かつての主君の前に引き出されることとなったわけだ。
 「困ったわねぇ……」
 意外にハルヒも困っているらしい。まあ、流石にSOS団メンバーの記憶喪失にわっほいと瞳を輝かすことなどいくらトンデモ女子ハルヒでも無いだろうが(これでも仲間思いだ、それなりに)、仁王立ちのままぎゅっと眉を寄せて考え込んでいる。その前で、肩を竦めて椅子に掛けさせられているのが当の古泉さんである。古泉さんと呼びたくもなる。放課後になってもなかなか顔を出さない副団長に焦れたハルヒが9組に差し向けた俺に対して、古泉の第一声は「誰だっけ」ときた。わざわざ迎えにいったのにこの仕打ち。今度は何のお遊戯を始めたのかと思ったね。
 だが、そういうわけじゃないらしい。ソッチのがどんだけ心安らかか。それなりに腹が立つが。
 「ほんと、困ったわ。これじゃ活動も碌に出来ないじゃない?」
 俺には古泉の記憶と団の活動との間にいまいち赤い糸は見えやしないが、ハルヒはそうではないらしい。別に存在意義が見出せないとか思ってるわけじゃないからな。ハルヒの言葉に頭を押されるように朝比奈さんがうな垂れる。心に重しが乗っかったようにどんよりと天使のかんばせを曇らせてらっしゃる。弱弱しい陽光が忍び入る部室内の空気はひたすら重苦しいが、これは俺の心境の所為でもあるんだろうね。これでも一応心配はしている。
 「あのー」
 しかしいまいち緊張感に欠ける古泉さんだ。そっと片手を持ち上げて、いいでしょうか? と尋ねる仕草。
 「僕はどうすれば?」
 それもそうだろう。いきなり拉致られ、知らん奴らに囲まれて淡々と困られているこの状況、俺が古泉の立場でも今すぐ脱出したい。ハルヒによって引き入れられたときとは違う。あいつぁー最初から俺たちのことは殆ど知ってたからな。……あれ? そういえばどっからどこまで忘れてるんだこいつ。
 ふと思い当たって、ハルヒになにやらごちゃごちゃと(とにかく放課後はここにあつまりなさい、ね!)言い聞かせられている古泉のいまいち締まらない表情を眺める。学校に来て、ちゃんと自分の席についているところ、学生としての生活サイクルは記憶にとどまっているようだ。ここはどこ私はだれ、というわけではないらしい。古泉が俺の視線に気付いて、曖昧な笑みで首を傾げた。いつもの完璧な微笑みと比べてかなり不自然で違和感がすごい。思わずこちらの顔も引きつるってものだ。笑い方は忘れているようだな。あとは敬語か。

 長門は俺の傍らで今のところ全く口を開かず、観察するようにじっと古泉を見ている。何かわかるか、という期待を込めて目配せしてみると、マリオネットのように前触れもなくついと顔を上げる。俺はこそりと囁いた。
 「ハルヒか?」
 「おそらく違う」
 だろうな。ハルヒがいくら面白イベントを請い求めていようと、古泉の健忘程度を願うわけがない。超能力者と踊るよりずっとありふれていて面白みに欠ける。それにSOS団からあわよくば欠員が出るかもしれない事態なんて、そうそう愉快にしていられないはずだ。事実、ハルヒは孤島で仕掛けられた殺人事件に遭遇したときのように、こんなことが起こるなんてね、とむつかしい顔でぶつぶつ繰り返している。
 「頭でも打ったか」
 「頭部への衝撃による健忘の可能性はある。しかし今のところ身体への外傷は見当たらない。記憶に影響するような特異な事象も起こっていない」
 「待てよ、昨日たしか」
 あいつ、携帯に呼ばれて飛び出してったぞ。ハルヒがぷりぷりやらかしたやつで。長門はこくりと頷く。
 「特異な事象ではない。古泉一樹の日常的行動の範囲内には収まる。記憶障害には影響しない」
 俺は思わず嘆息した。閉鎖空間で戦うことがルーチンワークとは、なんだかな。あらためて奴の立場を思い知るというか。俺は二度と行きたくないが、習慣になると何か違うものかね。怖さを忘れると? 俺はまだ車の免許は持ってないが、あれだってハンドル握り始めにはスピード違反など絶対にごめんだと思う筈だしな。
 まぁしかし、昨日の古泉の様子に変わったことがないことも確かだ。不吉な一報でお仕事に向かう奴の姿は幾度も拝見した。ハルヒの機嫌が悪かったのも誰の目からも見るからにだったしな。それほど「たいしたもの」ではなかったんだろう。
 「他に理由は見当たらずか?」
 「私が予測できる範囲には特に原因はない。外的要因に限っては」
 「てーことは……」
 重たく感じる肩をなんとか竦めた俺を長門は瞬きもせずに見上げた。
 「とんだアクシデント」

 「とにかく、原因がわかるまでは様子見ってことでいいわよね? いいわ! 仕方がないもの。今日のところはこれで解散! あたしは対処方法を調べてくるから、キョン、あんた古泉くんの世話するのよ」
 びっ! と一指し指の腹をこっち向けて言い放つハルヒの目には妙な使命感が燃え宿っている。ごーごーと。なんで俺がこいつの世話を、とは言いにくいので、しぶしぶっぽさを前面に押し出した緩慢さで頷いた。世話っつっても、たいしてすることもなさそうだしな。放置してても多分勝手に生きよる。古泉が勝手に醸し出す初対面の相手との気まずい空気を感じたくないだけさ。
 「それと古泉くん、さっきも言ったけど――、」
 いつものことだが、ハルヒは俺の頷きなんか見ちゃいねえ。従うのが当然だと思っている女だ。髪をはためかせて未だに頭からはてなマークの飛び出ている古泉を振り返ると、子どもに言い聞かせるように一字一句正しく発音する。
 「放課後はちゃんとここに来るのよ。放課後じゃなくても私が呼んだら来るのよ。あなたは団員なんだから――それは変わらないんだからね! 大丈夫よ、いつもとおんなじことしてたらそのうち思い出すわ。敬語は忘れちゃダメよ! 形から入るのよ。さぁいくわよみくるちゃん、有希。忙しいわ」
 なんとも珍しく――今となってはそうでもないか、ぽかんとした様子の古泉がのろのろと頷くのを確認すると、満足したようにハルヒも頷き返し、朝比奈さんと長門を引っ張って出て行く。まあ言い方はどうであれ、ハルヒなりの気遣いが溢れている言葉じゃないか。当人は圧倒されてるようだがな。
 「古泉よ」
 「……はあ」
 ぱちくりと瞬きも多く、閉まったドアをただ見やっている古泉の肩を叩くと、今存在に気付きました、というふうに此方を向く。あれだけハルヒに言われたら当然だろうが、やっとこさ事態を全て飲み込んだらしく、最初のような暢気さは影を潜めている。うっかり流砂に迷い込み足元がおぼついていないような、ぐらぐらとした瞳の揺らぎは見知らぬ表情でしかない。ああ、なんとも引っかかる、いやなことも思い出す――おんなじ顔してながら、なんだこの違和感は。ぶっちゃけ気持ち悪い。
 「まぁ災難だがな。あいつの言うこともわからんでもないから、いつものようにしてろよ。……つってもわからんのか」
 「いつものように」
 唇を歪めて繰り返す。
 「僕が君たちのことを忘れてる、ってことはわかった。……わかりました。たぶんそうなんだと思う。敬語を使ってたっていうのも……クラスで変な目で見られたのはその所為なんだろうな、…でしょうね。でもどうやら、忘れてるのはそれだけみたいで」
 「だろうな」
 「何でだろう。……ぜったいに忘れちゃいけないことのような気がするんだけど」
 途切れ途切れにそう言うと、古泉は唇に人差し指の背を押し当てて黙り込んだ。必死に脳内のエクスプローラーを可動させているのだろうか。あれだけさまざまなパターンで繰り広げられた古泉の顔面笑顔スライドショーはぱったりと動作するのをやめたらしく、かわりに主役に躍り出ているのは不安の色だ。というか今日まだちゃんとしたこいつの笑顔を見てないぞ。
 「まー寝たら治るかもな。今日のところは帰ろうぜ。……おまえ、家は」
 わかるらしい。なら、放置でいい。何か不便があったら携帯に連絡しろ、とだけ約束を取り付けて、俺は古泉を解放した。最後まで思案の大海原に漂っている枯れ木のような背中は、いくら相手が古泉といえどハルヒに言われるまでもなく十分心配するに値するものだったからさ。

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 結論から言うと、古泉の健忘は一晩寝ただけじゃ治らなかった。それから暫くの間は声をかけてもあっちは一瞬気付かず、のような調子が続いたが、俺たちの苦労は特筆すべきものでもなかった。古泉はちゃんとハルヒの言いつけを守って部室に毎日顔を出したし(これは何をする集まりかを尋ねやがり、もう一度団長様のケッタイな宣言を全員で拝聴することになったが)トイレにいくのを忘れちゃうとかいう方向に記憶障害が生じるでもなかった。9組で培ったお勉強の内容もちゃんと覚えていて、コレを忘れていようものなら内心ちょっとしめしめだったものの、0点を取る古泉は見られずつまりは別段笑える話にもならない。
 「わかんないのよねえ、」
 とは、古泉のこころの神様の言う弁だ。3人がかりで図書館を引っ掻き回して調べた結果、いまいち納得のいく原因を見つけられなかったらしい。
 「たんこぶのひとつでもできてるかと思えばそうでもないし。たぶん心因性なのよね。古泉くんに限ってねぇ……。まあ今度催眠療法でも試してみましょ」
 ハルヒにしてみればわりとまともな発言だ。それで治るなら構わないが、もともと古泉は外面を嘘で固めている奴なので、深く掘り下げた結果隠し通すべき内容もべらべら喋りださんとも限らん。ちょっと怖い。あいつ、演技し続けた結果自分がわからなくなっちゃったんじゃないかね。

 俺の気にかかっていたことは推し量らんでもちゃんと別口から知らされた。いきなり森さんが俺を訪ねてきて言うには、奴は機関のこともすっかり忘れているらしい。
 「定期連絡がないので古泉のもとに人を寄越したけれど、全く気付かず素通りだったようね。能力がどうなったかはわからないけど、今のところ閉鎖空間が発生する様子もなさそうだし、そのときになってみないとわからないわ。古泉の変貌が涼宮ハルヒの精神に影響しないかぎり、こちらとしても、現状維持で観察を続けます」
 森さんの言うとおり、ありがたいことにハルヒの気分を害する原因にはなっていないらしい。自分が怒ってもどうしようもないとちゃんと理解しているのかもな。小骨が喉に引っかかったままのような違和感に付き纏われながら、このまま過ごしていくしかないようだ。
 ハルヒの言うように、古泉の記憶に影響しているのが心因性のものだってのはなんとなく首肯してもいい。ありえなさそうなもんを削っていった結果だが、取捨選択しなくとも最初っから可能性としてベスト1じゃなかろうか。閉鎖空間での戦闘がストレスになってやらかしちゃったんなら、俺だって納得の上同情と労わりをプラスしても構わない。いや、そのストレスを少しは請け負ってやってもいいなんて思ってすらいるのさ。

 そう、事態は何も変わっちゃいないのだ。古泉は下手糞ながらも敬語を続けようとするし、命じられればちゃんと朝比奈さんに向かってレフ板をかざすので、見た目には俺たちSOS団に何の変化もないようだが、しかしふとした拍子に奴の憂い顔を目撃してしまうときがある。笑顔もぽつぽつと現れだしたが、未だに感情の行き先をなくしたような戸惑いの色を浮かべることも多く、そのたびに俺はいらん気を回した。なんだかそうしないといけないような気になったからさ。腕を掴んで引っつれてって、朝比奈さんが入れた極上ものとは比べようも無い味気ない自販機の茶を飲ませてやったりして、気の抜けるところを作ってやらないと、二重にシャッターを下ろされてもますます困る。
 「ごめん」
 温んだコーヒーの入ったカップを握り締めて、古泉は大きく息を吐き出した。空は綺麗に晴れてるっていうのに、なんでこいつはこんな辛気臭い顔をしないといけないんだろうね。つーか、二人してか。睫を揺らし、唇を引き結んだ古泉の顔は、以前のものとは対極で、慣れてきたとはいえやはり戸惑う。最初なんて、誰だこいつ、と思ったもんな。
 ほんとは今でも思ってる。どこを見ても不備の見当たらない、神様はこいつの外枠を作るときに手抜きなどしなかったんだろうな――そんな古泉の殻の中に、一体何が入っているのかとすら考える。いや、逆なのか。
 総合的に考えると、こいつがどっかに置いてきちゃったのは4年前の変革で手に入れたもの全てだということになる。以前の古泉が演技で固めた偽ものの姿なら、俺たちのことを忘れ、涼宮ハルヒの呪縛から逃れた今の姿こそが正しい古泉一樹という一男子高校生のものなのかもしれない。笑顔をとり繕うこともなく、むりして敬語を使わず、自身の使命さえ忘れて正直に生きるこの姿が、前の古泉からしちゃ歪で不恰好なものだが、これが。
 なのにそうさせちゃくれないのがハルヒで、さらに他でもないこいつ自身だ。
 俺たちの立場からみればわりと矛盾するが、未来はひとつだという考え方がある。いくら途中で枝分かれしようが、こよりのように寄せ合わさってやがて流れは大河に戻るわけだ。ハルヒは敬語を忘れたこいつに再び部室内で居るべき位置を与え、そんでこいつは俺たちのことを思い出そうと思い悩む。軌道修正はすでに為され始めている。
 だから俺は古泉に優しい言葉をかけてやるのさ。たまにはな。
 「何へこんでんだ。さすがに解るぞ。まぁ俺には言ってもいいんじゃないか」
 古泉は揺れる瞳をこちらに向けた。うう、違和感。ガマンだ。可愛いと思えばいい、こいつは可愛い可愛いチワワである。おお連れ帰りたい……いや古泉なのだが。
 「何で思い出せないんだろうと」
 わかっちゃいたが、俺の全く役に立たないジャンルの悩みキター。
 「そんなことない。です。きみの心遣いには感謝してる。ほんとうに……ありがたいと思うんだ。なのに僕は」
 「……まぁ、急ぐことはないんじゃないか」
 「だめだとおもうんだ。忘れちゃ……いけない。いけないんです。大事だったのに、なにが大事だったのか思い出せない」
 言葉を詰まらせて、古泉は再び手の中に視線をうつした。ゆるゆるとさざめくコーヒー面は、こいつの心境をそのままうつしているようで、不意になんだか俺は寂しくなった。
 いや、ほんとうはずっと寂しかった。言葉にするのも嫌なんだ。古泉、お前、どこにいるんだよ。
 俺は俺のことを知らない古泉のことを一度、いやってほど見たから、こういうのは気分が悪いんだ。


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Last-modified: 2008-01-30 (水) 23:21:08