≪古泉×キョン 古泉一樹の昼食≫


「あ〜あ、なんか美味しいものが食べたいわね」



退屈そうに机に頬杖を付いてポツリと呟いたハルヒのその言葉を聞いた瞬間、
俺の脳裏をいやな予感が駆け巡っていった。



ここはかつて文芸部と呼ばれていたはずの部室棟の一角。ハルヒによって占領され、
いつの間にかSOS団の根城とされたこの部室で、俺たちは怠惰な放課後を過ごしていた。
いつものように俺は古泉とヘボ将棋を指し、その脇でメイド装束に身を包んだ朝比奈さんが微笑んでいる。
テーブルの隅っこでは長門が分厚い書籍を読んでおり、これもいつもの通りとしか言いようがない。
これで正面の机にふんぞり返る「団長」の腕章を付けたハルヒが何も言い出さなければ
一日は平穏無事に終わったはずだが、そうは問屋が卸さなかったようだ。

「言っておくが、金は無いぞ」

駒を打つ手を止めてハルヒのほうに向き直った俺は、勤めて冷静な風を装って冷たく言い放つ。
こいつがまたろくでもないイベントを考え付かないうちに、さっさとその意図を潰しておくに限る。
そうでもしないと、後で苦労するのは絶対に俺に決まっているんだ。
「……あんたに奢ってくれなんていってないでしょ」
出鼻をくじかれた格好になったハルヒは、片眉を吊り上げてこちらを睨んだ。
「今言わなくてもどうせ後で言い出すに決まってる。だいたいいつぞやの『SOS団市内ぶらぶら歩き会』
とやらで昼食その他一切合財の支払いを俺に押し付けたのはどこのどいつだ。
逆さに振っても鼻血も出るもんか」
「それはあんたが集合に遅れてきたからでしょうが」
念のために言っておくが俺は一分たりとも約束に遅れた記憶はない。
ただ、お前たちが俺が行く10分も前に集合していただけのことだろうが。
もっとも、それに関してはもう諦めているがね。

「そもそもね、あんたが奢ってくれそうな食べ物の味なんて高々知れてるに決まってるじゃないの。
あたしはね、そんなどこにでも売ってるものが食べたいわけじゃないの。
もっとこう、世界にひとつしかないような印象深い食事がしたいの」
「……中国へ行って熊の手の煮込み料理でも食う気か?」
「あんた馬鹿にしてるの? 別に高級ならいいってもんじゃないわよ。
例えば心がこもってるとか、二度と食べられないとか色々あるでしょうが」
徐々にハルヒは機嫌を損ねてむっすりとした顔になっていくのが分かる。
まずい、これは藪蛇だったかもしれない。
「とにかくね、あたしはもうハンバーガーとかドーナッツをつまむなんてことに飽きたの!
世間に売ってない何かが食べたいの!」
ガタリと椅子を弾き飛ばさんばかりの勢いで立ち上がったハルヒは眉間に皺を寄せて
俺をいよいよ厳しく睨んでいる。まずい、これは本格的にヤバイ。
「あ、あの……」
部室内にじわじわと煮えたぎったマグマのようなハルヒの怒りのオーラが広がっていく。
それを感じて怯えた朝比奈さんが弱弱しく声を上げたその時、


「でしたら、僕がご馳走しましょう」


穏やかに言ったのは古泉だった。


古泉の唐突な提案に、俺は返って血が凍るような感覚に襲われた。
場の雰囲気を読んでいるのかいないのか、奴は平常と変わらない人畜無害そうな顔で笑っている。
古泉、お前はこの煮えたぎったマグマに燃料気化爆弾でも放り込む気なのか。
「本当!? 古泉くん、何食べさせてくれるの!?」
俺の想像に反して、ハルヒは素っ頓狂な明るい声を上げた。
「はは、と言っても僕も持ち合わせがありませんでね、今からと言うわけにはいきません。
その代わりと言ってはなんですが、涼宮さんには明日の昼の弁当を僕が作って差し上げます。
もちろん、団員の皆さんの分も作りますから明日の昼にここで揃って食べると言うのはいかがでしょうか」

「いいわ、いいわよ! それ、ナイスアイデア!!」

それを聴いた瞬間、我が意を得たりとばかりにハルヒは大げさにうなずいた。
「喜びなさい、キョン。古泉くんが明日の昼食を食べさせてくれるって! すごく面白そうだわ!」
ハルヒはそれがまるで自分の提案であるかのように大げさに胸を張って俺を見下ろした。
おいおい、お前は本当にそんなもので満足なのかよ。
さっきオーバーにまくし立てた不満はいったいどこに行ったんだ。
「男の手料理ですからお口に会うかどうかは保障しませんが、
市販のものには負けない程度だとは自負していますよ」
古泉もいつもと変わらぬにやけた笑いを浮かべてハルヒにお愛想を言う。
「あ、あの……それじゃあ私も何か作ってきましょうか……」
横から恐る恐る朝比奈さんも提案する。
ひょっとして、朝比奈さんも同じ事を考えていたのかもしれない。
「みくるちゃん、いいわねそれも。うん、古泉くんとみくるちゃんの競作弁当、楽しみだわ!」
ハルヒは視線をちらりと長門のほうに振った。
「有希もそれでいいでしょ?」
長門は視線を書籍に落としたまま何も言わず、ただうなずく。
「じゃあ決まりね。明日の昼は『SOS団昼食コンペティション』開催よ。
それじゃあ、明日の予定が立ったから今日はこれで解散!」
一方的に宣言したハルヒは、腕から団長の腕章をもいで鞄を引っつかむと
わき目も振らず部室を出て行ってしまった。俺はただその背中を呆然と見送るのみだ。
「そ、それじゃあ私たちも帰る準備をしましょうか……」
朝比奈さんの言葉にようやく我に返った俺は、ため息を付いて目の前の将棋の駒を集め始めた。


「それじゃあ、戸閉まりはしておきますから……」
着替えなければ帰ることができない朝比奈さんを残して俺は部室を出る。
長門は朝比奈さんと一緒に帰るらしい。ということで、俺は古泉と二人で部室を後にする羽目になった。
廊下を歩く古泉の背中を俺は見ている。まったく、こいつは何を考えてやがるんだ。
「古泉、お前いったいどういうつもりなんだ?」
黙っていればいいのに、俺はついつい声を掛けてしまった。
足を止めて古泉はこちらに振り向く。その顔にはいつもの胡散臭い笑顔が張り付いたままだ。

「ホイホイとハルヒの言うことを聞いて、男のくせに飯を作ってやるだなんて。
そんなことは朝比奈さんに任せておけばいいんだ」
「僕の仕事は涼宮さんの精神を安定した状態に保っていくことですよ。
これは僕にとって当然の行為ではないですか」
「ハルヒの言うがままにへいこらしてでもか?」
「それで世界を今のままに維持できるのなら」
古泉の声のトーンが下がる。
ほんの僅かに俺に向ける古泉の目線が厳しくなったように見えたが、それはすぐに消えた。

「それにね、今回の涼宮さんの要求は僕にとっても願ったり叶ったりでしてね」

雰囲気を変えようとしてか、再び明るい口調を取り戻して古泉は言った。
「願ったり叶ったり? どういう意味だ?」


「僕の手料理を、あなたにも食べていただけますから」


「な、な……!」
「はは、本当はあなただけに食べていただくのがいいんですけどね。
それでは明日を楽しみにしていてください」
思っても見なかった回答を聞いて唖然とする俺を尻目に、古泉はさっさと歩いていってしまった。

「はあ……」
家に帰りついた俺は、自分の部屋に入ると通学鞄を放り投げて適当に座り込む。
ハルヒの迷惑な思いつきでまたろくでもないイベントに巻き込まれる羽目になって、
今から明日の昼休みが来るのが憂鬱でたまらない。
まあ、単純に集まって飯を食うだけなんだから、きっとそれ以上のことにはならないと信じたい。
いいさ、俺は朝比奈さんの手料理が食べられればそれで満足なんだ。
それ以上のことなんて知るもんか。
そう思いつつそのまま体を横に倒して寝転んだ時、不意に古泉の笑顔が頭をよぎった。
古泉の手料理。
さて、奴はどんなものを作ってくるつもりなのか。どうせ奴のことだから、
「機関」とやらに手を回せばどんな料理だって揃えられるはずだ。
満漢全席でも並べるつもりかはたまたフランス宮廷料理か。
ハルヒを満足させるにはどんな料理が必要なことやら。
不意にその時、エプロンを付けて菜箸を持った古泉がかいがいしく俺に給仕をしてくれる姿が
頭に浮かんだ。

『はい、キョンくん。どうそ、あーん』

『あーん』

な、何考えてるんだ俺。思わず俺は跳ね上がる。
古泉にメシを作ってもらって嬉しいなんて、そんな馬鹿なことありえない。
そうさ、俺は朝比奈さんにこそその役をお願いしたいはずなのさ。古泉なんて……。
「そうだ、弁当箱出さなきゃ……」
立ちあがった俺は通学鞄から空の弁当箱の包みを出すと、のそのそとキッチンに歩いていった。
キッチンでは母親が夕食の支度をしている。弁当箱を流しに置きながら俺は言った。
「母さん、俺、明日は弁当要らない」
「あら、どうしたの?」
「たっ、谷口が学食で奢ってくれるってさ。だからありがたくいただくことにしたんだ」
「あらそう。それは手間が省けていいわね——」
母は嬉しそうに笑う。古泉の名前は、どうしても出せなかった。

放っていたって黙ってたって時間というヤツは無常に流れる。

次の日の昼、授業終了のチャイムが鳴って昼休みに突入したその瞬間、
ハルヒは俺のブレザーの袖を引っつかんで教室から引きずり出すと、
そのまま俺に有無を言わせず早足で歩き始めた。
「何するんだ、おい」
俺の抗議も意に介さずハルヒはズンズンと突き進んでいく。
「決まってるじゃない、部室よ。古泉くんのお弁当が待ってるのよ、早く行かないと」
「早くったって、古泉が待ってるわけないだろうがっ」
デカイ弁当を抱えて部室に行くんだから、普通に行くより遅くなるだろうに、
そんなことは全くハルヒの考えにはないようだ。
最後までハルヒは俺の袖から手を離さず、あっという間に部室まで俺たちはたどり着いた。
ドカンとまるでそのままぶち破りそうな勢いでハルヒは部室のドアを開く。
当然ながらそこには誰もいない。
「なんだ、まだ誰も来てないの。つまんない」
「当たり前だろうが。古泉だって5人分の弁当抱えて、そんなに早く来られるもんか」
「だったら授業をサボって、ここで待ってればいいのよ。全く、気が利かないんだから……」
ぶつぶつ言いながらハルヒはドサリといつもの団長席に腰を下ろして、つまらなそうに頬杖を付く。
そうこうしていると部室のドアがガチャリと開いた。
「…………」
いうまでもなく無言の挨拶は長門が現れた証拠。
長門はドアを閉めるとそのまま自分の定位置を目指す。
「長門、朝比奈さんか古泉を見なかったか?」
「……もうすぐ来ると思う」
その言葉通り長門がパイプ椅子に腰掛けたのとほぼ同時に、部室のドアが再び開いた。
「ご、ごめんなさぁい……遅くなりましたぁ……」
息を切らして飛び込んできたのは朝比奈さんだった。見れば片手に大きな風呂敷包みを抱えている。
そんな重そうなものを女手一つで抱えてここまで走ってくるとは、
ハルヒのわがままにつき合わされてるとは言え本当にけなげだ。
「みくるちゃん、遅い! お弁当食べさせてくれるって言うんなら、先に来て待ってなさいよ」
「すみません……」
ハルヒの理不尽な要求に、それでも朝比奈さんはしゅんと肩をすくませてしまった。

そこに、本日の主賓であるはずの男がようやく現れた。
「すいません、遅れました。何せ大荷物でしたのでね」
相変わらず人畜無害そうな笑顔をその面に貼り付けたまま古泉がドアを閉める。
古泉のその手には、ピクニック用と思われるやけにデカイ籐製のバスケットが握り締められている。
そして肩からはステンレス製の水筒がぶら下がっていた。お前、どうやってこんな荷物学校に持ち込んだんだ。
「やれやれ、ようやく揃ったわね。それじゃあ、『SOS団昼食コンペティション』開催よ!」
ハルヒは大仰にそう宣言すると、団長席のパイプ椅子を引きずっていって、俺の定席の真向かいにふんぞり返った。
その向かって左に朝比奈さんが、さらにその横に長門が腰掛けて、俺の横には古泉が座を占めた。
真横とは言わん、せめて正面に朝比奈さんが腰掛けて欲しかったぜ。

「それじゃあ……そんなに手間は掛かってないですけど……」
机の上に置かれた風呂敷包みを、朝比奈さんは解く。中からは三段に積まれた立派な重箱が出てきた。
「みくるちゃん、すごーい!」
広げられた重箱を見て、ハルヒが目を真ん丸にして仰け反った。確かにこの重箱弁当は超豪華版だ。
別に高級食材を使っているわけではないが、言葉とは裏腹にかなり手間はかかっているようだ。
一段目にはぎっしりとおにぎりが詰められて、二段めには卵焼きや蒲鉾、高野豆腐、こんにゃく、
ごぼうの牛肉巻きといった和風のチョイス。
三段目は一転して洋風でミニハンバーグやミートボールに鶏の唐揚げ、それにデザートなのか
フルーツゼリーまで入っている。
「ええっとこれが鮭で、あと梅干しとおかかと明太子と、ツナマヨネーズ……」
朝比奈さんのおにぎりの中身の解説を聞きながら、俺はちらりと隣で食事の準備をする古泉の顔を見た。

(僕の手料理を、あなたにも食べていただけますから)

あの言葉は本気だったのだろうか。
そのバスケットの中身は古泉が俺のことを想って精魂こめて作った昼食だと言うのか。
ハルヒに食べさせると言うのは口実で、本命は俺。
そんなことを考えると、胸の鼓動が少し高まった気がした。
「どうかしましたか?」
その時、俺の目線に気が付いたのか古泉はにこりとこっちを向いて笑った。
「いや、別に」
俺はさっと目線を逸らした。

テーブルに広げられた重箱に、さすがの古泉も眼を見張っている。
「いやいや、さすがは朝比奈さんですね。これでは僕の出る幕はありませんね」
「ご託はいいからお前もさっさと出せ。朝比奈さんの料理が食えんだろうが」
「分かっていますよ」
古泉は、大きなバスケットを開け、俺たちに見せる。
バスケット一杯に詰められていたのは、パンの茶色い一風変わったサンドイッチだった。
「うわぁ、みくるちゃんもスゴイけど、このサンドイッチもスゴイじゃないの!
さすがは我がSOS団の副団長ね!」
「お褒めいただいて恐縮です。このサンドイッチはブラウンブレッドを使った英国風、
いわゆるイングリッシュサンドイッチでしてね」
「何がどう違うってんだ」
大はしゃぎのハルヒを横目に見ながら、俺はついぶっきらぼうな口調で聞いてしまう。
「英国に留学したことがある知り合いがいましてね、このサンドイッチは彼から教わったものです。
英国の食事はとかく評判が悪いんですが、朝食だけは別物でしてね。
『英国で満足な食事をしたければ三度朝食を食べろ』とはよく言われたものです。そもそも——」
「……早く出せ」
「おっと、これはどうも」
古泉は手早くサンドイッチを取り出して並べた。


テーブルの上に所狭しと並んだ和食と洋食。
朝比奈さんに感謝するために俺は軽く手を合わせる。
「では、いただきま……」
挨拶を言い終えない間に、ハルヒがまるで飢えた鷹のように重箱からおにぎりを掻っ攫った。
てめえ、それは俺が目をつけてたツナマヨ握りじゃねぇか。
「お前、それは俺が食おうと思ってた……」
「ボサボサしてるあんたが悪いのよ。こういうものはね、取ったもの勝ちなのよ」
言うが早いかハルヒはがぶりとおにぎりに噛み付き、僅か数口で飲み込んでしまった。
「ングング……さすがみくるちゃんね、完璧な味だわ。さあ、あんたにもくれてやるからありがたく戴きなさい」
「へいへい」
口に物を入れたまましゃべるハルヒに辟易しながら改めてもう一度朝比奈さんに頭を下げると、
俺は別のおにぎりを口にした。

さすが朝比奈さんだ。ハルヒがいうまでもなく完璧な味だぜ。もう感動的といっていい。
今の俺には同じ重さの金と同じ価値があるね。
「それじゃあ……戴きます」
朝比奈さんが古泉のサンドイッチに手を伸ばし、長門も無言で同じように食べ始めた。
なんだかんだ言っても、こうやって大人数で食事をするのは確かに楽しい。
ハルヒも満足そうに笑顔を浮かべておにぎりとサンドイッチを交互にほおばっていた。
これなら閉鎖空間が現れる心配もあるまい。
「古泉くん、すごく美味しいですぅ……」
「古泉くん、なかなかいい味じゃないの。みくるちゃんにも負けてないわ」
「恐縮です」
ハルヒ達のお褒めに預かった古泉は微笑んで軽く頭を下げている。
まったく、幇間じゃあるまいに。なんとなくその笑顔にイラつく俺がいた。
だから意図的に古泉のサンドイッチは避け、俺は朝比奈さんの弁当ばかりパクつく。
本当に子供じみた反発だった。

「そういえば、こちらは食べないのですか?」

その時、不意にそう言ってこちらを覗き込んだ古泉の顔に、
唐揚げを取ろうと伸ばした俺の手は止まった。
「な、なんだよ、急に」
「いえ、先ほどから朝比奈さんのお弁当ばかり食べておられるようなので。
僕のサンドイッチに、何か気に入らないところでも?」
ニコニコした表情は崩さず、古泉は自分のサンドイッチを指差す。
「ああっ、そういえば本当にさっきからみくるちゃんのお弁当ばかり食べてるじゃないの。
何よ、何か気に入らないところでもあるの?」
ハルヒも俺が何を食べたか見ていたらしい。自分が作ったわけでもないのに、
急にハルヒは不快そうな表情を浮かべ始めた。
「いや、そんなことは……」
「だったら、団長命令よ。残さず食べなさい!」
立ちあがったハルヒは、不機嫌そうに古泉のサンドイッチを指差した。これはもうだめだ。
こうなったら食べるしかない。しぶしぶ俺は適当にサンドイッチをトレイから取った。

「それはローストビーフのサンドイッチですよ」
「ローストビーフ?」
「ローストビーフはイギリスの名物でしてね。これをサニーレタスやトマトとはさんでいただくと
非常に相性がいいのですよ」
俺の顔と手の中のサンドイッチを交互に見ながら古泉はにこやかに解説しやがる。
今の俺には中身なんてどうでもいいのに。
なおも俺はためらっていると、ついと手を伸ばした長門が無造作に俺が取ったのと同じサンドイッチを
取り上げてパクリと口に入れた。
「……長門、美味いのか、それ」
「…………うん」
さらに数口飲み込んだ長門は軽くうなずく。
いよいよ観念するしかない俺は恐る恐るローストビーフサンドイッチを口に運んだ。

あ……美味い……。

これは並みのローストビーフじゃない。
一口齧ると、口の中にどっしりとしたブラウンブレッドの小麦の味が広がり、
続いて牛肉の味が追いかけてくる。その肉が信じられないくらいに柔らかくて、
しかも口の中に入った途端、冗談じゃなくまるで油がとろけるように溶けていく。
その感触に思わずほわぁぁぁ……とか何とか気の抜けたような声を上げそうになった。
「うまい……いやおいしい……」
俺はつい正直なことを言ってしまった。
「そうですか、それは良かった」
俺の言葉を聞いた古泉の微笑が、その一瞬普段とは比べ物にならないほど輝いたように見えた。
「ああそうだ、飲み物がないと食べにくいですね」
突然思い出したかのように古泉は傍らの水筒を取り上げると、脇にそろえてあった紙コップに
その中身を注ぎいれて俺の前に置く。柑橘系の匂いが、軽く鼻に届いた。
「……すまん」
もう断ることはなく素直にコップに口をつける。薄い酸味と甘味が口の中に広がる。
そうか、これはレモネードだ……。
甘味を抑えているから後味が良く、僅かな酸味が肉の脂の味を消し去っていく。

完璧じゃないか。こんな腕前を持つ仲間が傍にいることがちょっと誇らしい。

……それが男でなければ……。

心の中の僅かな葛藤を振り払って、俺はさらにもう一口レモネードを含んだ。



「あー、美味しかったわねー」
椅子にふんぞり返ってお腹をさすりながら朝比奈さんが淹れたお茶を飲んでハルヒは満足気にしている。
ちなみに俺はハルヒにかっぱられる前にがっちり確保しておいたフルーツゼリーを口に入れたところだ。
古泉も朝比奈さんも律儀に5人分の食事を用意したために、さすがの俺も
二倍腹に詰め込むことになってかなり苦しい。しかも古泉も朝比奈さんも作っただけで満足なのか
あまりたくさんは食べず、そのしわ寄せは俺のところに来てしまった。
(ちょっとあんた、もっと食べなさいよ!)
女のくせにかなり健啖なハルヒは、自分と同じ量が食べられないのはおかしいとばかりに
無理やり俺に食べさせようとしやがった。
もしもう一人の大食家である長門がいなかったら俺の腹はどうなっていたことやら。
もっともゼリー一個分のスペースは空けておいたがね。
黙々と残った弁当を食べていた長門が最後の一切れをつまんだ時、ハルヒが猛然と立ちあがった。
「よし、じゃあみんな食べ終わったわね! それじゃあ、新館まで誰が一番早く戻るか競争よ!」
おいちょっと待て。これだけたらふく食っていきなり走れるわけないだろうが。
お前の辞書には食後の休息という言葉はないのか。
「おい、まだ昼休みは終わってないぞ。もう少しゆっくりしてもいいだろうが」
当然の提案をしたはずの俺を、ハルヒはじろりと睨みつける。
「あんたね、せっかく蓄えたカロリーを使わないのはもったいないとか思わないの?
使いもせずにただ蓄えるだけなんておかしいじゃないの」
いや、蓄えたからといって今すぐ消費する必要なんてどこにもないだろうが。
「じゃあ、行くわよ。みんな付いてきなさいよ!」
「おいおい、待てよ!」
言うが早いかハルヒはあっという間に部室の扉を開けて飛び出していってしまった。

本当なら当然追わなければいけないだろうけど、学校の廊下にせっかく腹につめたものを
リバースなんてごめんだ。
その時、斜向かいにいる長門が無表情なままスイと立ちあがった。
そうだ、有機アンドロイドのお前なら胃袋の容量など関係なく体が動くだろう。
「長門、スマン。ハルヒに付き合ってやってくれ。俺たちは無理だ」
「……わかった」
長門はそのままハルヒが開きっぱなしにした出口に向かう。戸口に立ったその瞬間、ふっとその体が消えた。
「おい!」
びっくりした俺が慌てて立ち上がって戸口から外をのぞくと、いつの間にか長門ははるか向こうを駆けていた。
いや、「駆けていた」という表現は正しくない。体は普通に歩いているモーションのまま、
ただその動きがまるでビデオテープの早回しのように異常に速かったのだ。
「……やるならもう少しうまくやれ……」
思わずため息が出た。


取り合えず役目を長門が無事引き受けたことに安心して部室に戻ろうとした時、
立ち上がってこちらを見ていた古泉と目が合った。
「それでは、僕たちも行きますか」
「おいおい、もう少しゆっくりしたって……」
「涼宮さんが校舎の前で待っていないとも限りませんのでね。
そうだった場合、長門さん一人では荷が重いでしょう。取りあえず追うだけはしませんと」
「あ、あの、それじゃあ私はここを片付けてから行きますから……」
「そうですか、それではよろしく」
軽く朝比奈さんに微笑みかけると、古泉はこちらに来て俺の肩に手を置いた。

「じゃ、行きましょうか」

それだけ言って、古泉は部室から出た。しぶしぶながら俺もその後に続いた。

二人肩を並べて部室棟の廊下を歩く。階段に差し掛かったところで俺は口を開いた。
「……満足だったか」
それは相当に皮肉のこもった言葉だった。
「ええ、もちろん」
それに気が付いたのかどうか、古泉は軽く受け流す。
「曲がりなりにも涼宮さんの精神状態の悪化を食い止めることができましたからね。
これでしばらくは彼女も大人しくしていただけるかと」
「高々握り飯とサンドイッチで世界の破壊が抑えられるなら、安いもんだな」
「高々、ではありませんよ。彼女の興味を引くだけの食材を用意するというのはこれはこれで
骨の折れる作業でしてね。彼女があの手の軽食を好むということは以前からの経験で解っていましたけど、
彼女の興味をより強く惹くためにほんの僅か工夫をするということはなかなか難しいところなのですよ。
ましてや彼女は自分自身それなりの料理の腕がありますからね」
そこまで聞いたときに俺はハタと気が付いた。
何のことはない、奴はすべて「機関」とやらに丸投げしてたんじゃないか。
豪華な食材、絶妙な味付け。こいつ一人で出来るわけなかったんだ。
素朴な作りにすっかり騙されていたぜ。
「ふん、それで手作りと騙して高級レストランの料理の持込か。お前は何にもやってないじゃねえか」
僅かな怒りを込めて、俺は呟いた。古泉の単純な手口に乗せられた自分が腹立たしい。

「……本当にそう思っているんですか?」

「え?」
踊り場で足を止めた古泉は、ゆっくりとこちらに振り向いた。
いつもの微笑みの中に悲しみが混じったような微妙な表情。
その表情が、俺の胸を強く刺した。
「僕があなたを騙して出来合いのものを食べさせたとでも?」
「いや、それは……」
古泉の顔がどんどん近づいてくる。
「僕は、あなたにこそ僕の料理を食べて欲しかったんですよ。
なんであなたを騙さなきゃいけないんですか」
その表情を見ているだけで、俺はもうそれ以上古泉を疑うことはできなくなってしまった。

「僕を信じてください……」
「すまん」
切なくなるような古泉の声に、俺は古泉にただゆっくりと頭を下げる。
それは俺の心からの謝罪。自分の下種な勘繰りが古泉を傷つけてしまったことに強く胸が痛んだ。
「……よかった」
呟いた古泉の顔が、一転して信じられないくらい輝いて見えた。
こんな笑顔が見られたことが、たまらなく嬉しい。

「おや?」
その時、そう呟いた古泉が突然くすくすと笑い始めた。
「な、なんだよ、急にどうしたんだよ?」
古泉の笑いの意味が解らず戸惑う俺。
「口元にマヨネーズが付いてますよ。まるで白いひげが生えてるみたいですね」
「嘘だろ?」
その言葉に俺は咄嗟に口元を抑える。古泉はゆっくりとその手を取ると俺の耳元で囁いた。
「僕が取ってあげますよ……」
「お、おい……」
古泉はもう一方の手で俺の顎を取って少し上向きにさせると、顔を近づける。
そのまま舌を伸ばすと、古泉は俺の唇をぺろりと舐めとっていった。

 ぺろ、ぺろっ…

「や、止めろ、こんなところで……」
俺のその声に古泉はかえって欲情したのかもしれない。
もうマヨネーズなんて残っていないだろうに、奴は構わず俺の唇を舐めつづける。

 ぺろ、ぺろっ…

しばらくしてようやく古泉は顔を離す。興奮してかその顔は真っ赤に上気していた。
「綺麗になりました、ね。でも、もう少し丁寧にしたほうがいいですかね」
「丁寧って……」
再び古泉の顔が近づいてきて、そして奴は俺にキスをした。

「ん!……んん……」

すぐに古泉の舌が俺の口の中に入ってきた。
俺は一瞬驚いて顔を引こうとしたが、古泉は俺の頭を片手で動かないようにして、
俺の口の中をまさぐってくる。
思わず俺が少し口を開くと、歯を奴の舌が辿っていった。
古泉の舌は、まるでそれ自体が独立した一つの生物でもあるかのように俺の口の中で自在に動く。
それに対して俺は何も抵抗できない。
そのまま俺の口の中を散々弄って、古泉の顔がようやく離れた。
それと同時に手が離れたので、支えを失った俺はふらつく。

「あなたの口の中は、甘いですね」

古泉はそう言ってニコニコと笑っている。
「そんなわけあるかよ……!」
突然唇を奪われたことに頭にきながら、俺はかろうじてそれだけを言い返した。

「さて、そろそろ行かないと涼宮さんがおかんむりですかね」
古泉はそう言うと、やにわに俺を置いて階段を降り始めた。
「おい、ちょっと待てよ!」
慌てて俺は古泉の背中を追った。畜生、キスの余韻も味合わせるつもりはないのかよ。
「おい、マヨネーズが付いてたって、絶対嘘だろう!?」
「さあ、どうでしょう!」
走りながら振り向かずに奴は答えた。ふざけるな、この嘘吐き野郎。今度こそ騙されるもんか。


怒りと、恥ずかしさと、そして喜び。


そんな感情を胸に俺は遠ざかろうとする古泉の背中を追った。



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Last-modified: 2008-01-30 (水) 23:18:07