僕らのアンインストール


 背筋に独特の嫌な感覚を覚えて飛び起きた。
 限界まで瞠った目に映るのは真っ暗な天井。
 聞こえるのは自分の激しい動悸と食いしばった歯の間から漏れる喘鳴、それに隣家から壁づたいに微かに届くテレビか何かの音。
 身を起して眺める暗い室内は、カーテン越しの街灯の微かな灯りに照らされて、家具の輪郭だけを黒く浮き上がらせている。
 窓に透かした手のひらも、逆光に黒く塗りつぶされて、まるで自分が闇に取り込まれてしまったかのようだ。そのまま身体が闇に溶けて消えてしまう恐怖に全身が震えた。
「嫌だ……」
 じっとりと湿ったベッドから、僕はまるでバネ仕掛けで弾かれた玩具のように布団を跳ねとばし飛び上がる。
 スイッチを叩き割る勢いで点けた蛍光灯の薄っぺらな白けた光に、闇に慣れた目が眩む。灯りに照らされた手と脚と、見慣れた自分の部屋の風景は、少しは僕を安堵させてくれてもいいはずなのにまるでその役には立たなかった。
 全てが嘘くさく作り物じみて見える。なんだか舞台演劇のカキワリの背景みたいだ。  それは妄想に過ぎなかったけれど、実際にこの風景は、そして僕という存在は、いつ消えてもおかしくないのだ。
 この部屋のベッドも、クローゼットの中の衣服も、買い集めた『彼』と興じたゲームのすべても、涼宮さんにもらった「副団長」の腕章も、今まで僕が現実だと思っていたすべてのものは、たぶん全部、僕と一緒に何の痕跡も残さずに消えてしまう。
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、消えたくない、俺は消えたくない……!」
 ――消えてしまうんだったら、その前に全部壊れてしまえ!
 言葉にならない声を上げて、滅茶苦茶に腕を振り回す。机の上の参考書を薙ぎ払う。棚の上に重ねてあったボードゲームの類を叩き落とす。睡眠不足の身体で暴れ回った僕は息切れを起して床に座り込み、ベッドを両腕で無茶苦茶に殴りつけた。
 隣家から薄い壁を叩く音がしたが、知ったことじゃない。どうせあんたはいずれ今夜、僕がうるさく暴れたことも忘れるんだろう。
 あるいは僕じゃない誰かがここに住んでいることになって、そいつのせいにするんだろう。それでも今夜うるさかったことを覚えていてくれるなら御の字だ。
「……怖い、嫌だ、消えるのは嫌だ……嫌なんだ…――…、助けて……助けろよ…!」
 滅茶苦茶に物が散乱した床に投げ出した足を両腕で抱え込み膝に顔を埋め、何の力もないとわかっているのに、縋るように何度も彼の名前を繰り返す。そうしていないと消えてしまう気がした。

 ――僕は、実際そう遠くない未来にこの世から削除されることが、ほぼ確定している。
 きっかけは、ちょっとした違和感。
 いや、ちょっとしたどころではないな。なにしろ気がついたら、僕ら能力者が5人しかいなかったんだから。
 いくらなんでもそんなはずはなかったと思う。
 そんな人数では、中学時代、砂嵐のように荒れていた涼宮ハルヒの精神状態とそれに伴う大規模かつ高頻度の閉鎖空間の発生に対処できたはずがない。この人数で、一体どうやって僕らはあの地獄のような3年間を乗り越えてきたんだ?
 今の、安定した彼女の精神状態にはちょうど見合った……あるいは今ですら、やや供給過剰の気のある数だと思うが。
 少し前から疑念は湧いていた。けれど何一つ証拠はなかった。若干名の死者を除けば最初から5人だったと、全ての記録が物語っている。僕の記憶にも、僕を含めた5人以外の顔も名前も何一つない。
 でも、それではおかしい。
 この疑念は僕個人や能力者の間だけではなく、『機関』の上層部でもすぐに取沙汰されるようになった。
 しかし、『機関』の研究者やお偉方の間でも意見は割れた。
 曰く、僕らの記憶や記録の方が書き変わっていて、やはり最初から5人しかおらず、それに見合った程度の閉鎖空間しか発生していなかったのではないか。
 曰く、僕ら能力者は閉鎖空間の規模に合わせて徐々にこの世界から消滅して行っているのではないか。
 曰く、確かに能力者は消えているが、能力とその能力を持っていた記憶を失い一般人として生活している――一種の『解放』とさえ呼べる状態にあるのではないか。
 ……等々。  結論は割合に早く出た。
 僕が、長門さんに頼んで情報統合思念体の持つデータベースにアクセスしたことが原因だ。



「……特殊次元断層進入能力保有者の人数の減少は、発生時から今日に至るまで死者3名以外、いかなる理由でも観測されていない。……現在5名。……ただ、過去半年間に不可解なデータの消失が7件」
 長門さんだけでなく、喜緑さんに確認を取ってもらっても、同じ結果が戻ってきた。
 7名分の、氏名、その他一切の属性情報、履歴の消失。本来7人の人間がこの市内にいたはずなのに、その情報が消滅している、という話だった。それが能力者だったのかどうか、は分らないが。
 けれどそのデータ消失の日時は、僕の記憶にも『機関』の記録にもある、直近7回の閉鎖空間の消滅日時とぴったり一致した。ならばその消えた7名は我々の仲間だと結論づけていいだろう。13人程度なら、確かにあの閉鎖空間の発生頻度にギリギリ追いつく数だ。
 絶望だった。少なくとも地上にいる我々人間には何も感知できないままに、僕らの仲間たちは次々と閉鎖空間の発生に伴って消滅していっていた、ということ。そしておそらくはこれからもそれは続くと予測されるということ。
 信じたくなかった。耳を塞いで、聞かなかったことにしてしまいたかった。
「……そう、ですか…」
 だけど僕はそうしなかった。
 この情報は『機関』に持ち帰り、分析と検討の材料にするべきものだったから。そのために僕は彼女にこの話を打ち明けたのだから、一字一句正確に記憶しなくてはならない。
「……そう。でも原因は不明。ごめんなさい」
「いえ、いいんです……。むしろ、感謝しています」
「わたしもあなたの消滅は望まない。……でも無力。わたしたちが観測できない理由で能力保有者が消滅しているのならば、対処もできない。……悔しい」
 ぱちんと音を立てそうにひとつ瞬きして、長門さんは目を伏せた。彼女らしからぬ表情と、悔しいという言葉に、僕はひどく戸惑ったことを覚えている。
「済みません、余計なご心配をおかけして。ああ、このことはくれぐれも皆さんには内密に願いますよ。彼らに心配をかけたくないんです。……本当は、あなたにもこんな話はしたくなかったんですが、もう長門さん以外に頼れる方が居なくて」
「……いい」
 頭を下げた去り際に、長門さんが僕を呼び止めた。
「古泉一樹。……この情報は、あなたの消滅を回避する上で何の意味も持たない。しかも著しく非論理的。……でも、聞いて」
「何でしょうか?」
 立ち止まって振り返った耳に届いた言葉は、僕の胸を突いた。
「わたしという個人は、あなたを失いたくない、忘れたくない。そして涼宮ハルヒも、朝比奈みくるも。……そして彼も、そうだと推測する」
 嬉しかった。長門さんが僕を忘れたくないと思ってくれたことも、長門さんが他のみんなもそうだと言ってくれたことも。
「……長門さん、」
 抑えていた感情が、奔流となって溢れ出しそうだった。膝が笑い出して座り込んでしまいそうだった。だけど僕はそのどちらもねじ伏せて、いつもの古泉一樹らしい範囲に自分の言動を押しとどめた。
 長門さんは厳密には人間ではないが、それでも充分女性と呼んでいい存在だ。だけど僕は彼女に無様な姿を見られたくなかった。たとえ生身の人間だったとしても、今の僕がそういう醜態を晒したとしても非難したりはしないだろうが、それは僕のなけなしの矜持というものだった。
「せめて……せめてあなただけでも、もしも僕が消えたら、忘れないでいて下さいますか? あなたは一番僕を忘れないでいてくれる可能性が高そうなので」
「……確約はできない。でも、そうしたいと思う。……とても強く」
「それで充分です。ありがとうございます」
 僕が、僕らが消えない方法は依然見つからなかったけれど、それでも僕は嬉しくて、とっておきの特上の笑顔を浮かべた。長門さんには無意味なものかもしれないけれど。実際彼女は「……そう」と言っただけだったし。


 僕の持ち帰ったこの情報は、『機関』を、ことに僕ら能力者を恐慌状態に陥れた。
 消えた人間は、最早存在すらしなかったことになる。遺された者たちに思い出してもらうことすらできない。それはある意味で死よりも残酷なことだ。
 これ以上の犠牲は避けたい。では、何故僕らは消えるのか、その理由を探らなくてはならない。
 けれどこれも議論百出、何一つ確証のない仮説だけが、山のように積み上げられることになっただけだった。何しろ検証しようにも全ての記憶も記録も消去されているのだからどうしようもない。
 曰く、本来能力者のような非現実的な存在はあの瞬間に力を得たのではなく、あの瞬間にこの世に生み出された存在なのである。故に涼宮ハルヒが力を失いかけている今、我々はその力と共に消え去ろうとしているのだ。
 曰く、涼宮ハルヒの力の強弱が問題ではなく、問題は彼女が現実に着地しようとしてることで、「超能力者などいるわけがない」という確信を持ち始めたこと、「超能力者がいてほしい」という願望を捨てようとしていることが原因なのだ。
 曰く、情報統合思念体による情報操作。
 仮説はいくらでも出た。けれど反証もすぐに出る。今あげた代表的な3つの意見でも、ならば何故宇宙人と未来人は無事に温存されているのか、という疑問や、そもそも僕の目から見た涼宮さんが一向に「不思議」を追い求める性向を失っていないという事実により棄却される。情報統合思念体説も、長門さんも喜緑さんも、僕から話を聞かされるまで何も知らなかったということで破棄できた。
 最悪なのは、どういうプロフィールを持った人物がどういう順番で消えたのか、誰にもわからないことだった。何らかの法則性があるのかもしれないが、それを知る術は誰にもない。


 ……だから僕は消えてしまう不安でこうして気が狂いそうな夜を繰り返している。まだ昼はいい、周囲の雑事で気が紛れる。
 たとえ平穏な教室や部室の当たり前の光景を見ている時、その全てを失う恐怖に叫び出したくなっても、人目を慮ってなんとかこらえることもできる。
 少しだけ、彼に身体的に接触する頻度を上げてしまうのは止められなかったけれど。不思議と怒られはしないけれど、いい加減嫌われるかもしれない。でも僕はそれをやめられない。
 彼に触れていると、彼と話していると、僕は生きていると思える。まだ消えていないのだと確信できる。僕は彼が大好きだから。
 今のこの話はできないけれど、今まではトラブルが起きるたびに彼に協力を頼んだ。彼は嫌な顔をしながらも、いつだってそれを請け負ってくれた。必ずなんとかしてくれた。長門さんとはまた違った意味で、彼は本当に頼りになった。今まで、少なくとも校内では一番世話になったと思う。
 随分愚痴も聞いて貰った。当たり前の高校生のような顔で付き合うことができた。彼の宿題を見てやって、説明が回りくどいと怒られたり、オセロで呆れるほど簡単に負けてしまって笑われたり、涼宮さんのワガママに一緒に苦笑してみたり、他愛ない冗談に笑い合ったり。僕にとって彼はそういう大切な日常そのものだった。
 だから彼がいれば、僕は昼を乗り切ることができた。
 だけど独りの夜はダメだった。
 灯りを消してベッドに入っても、そうそう眠れない。ようやく少し微睡んでもすぐに閉鎖空間が発生した錯覚に襲われて飛び起きる。
 灯りをつけてテレビをつけていても、考えることは自分の消滅のことばかり。この芸人は、僕が消えた後も当たり前に騒いでるんだろうな、とか、来週このアニメを見ることはできるんだろうか、とか、僕が消えてもニュースにはならないんだろうな、とか。
 彼も僕を忘れて涼宮さんたちと楽しく団活を続けるんだろうなとか。その場合副団長は誰になるんだろうとか。
 自分が消えたあとも誰も気付かずみんなが当たり前に日常を続けていくのだと考えると、恐ろしくて寂しくて……憎くてたまらなかった。
 正直なところ、時々は能力者の仲間たちの消滅のことも考えるが、それは自分自身のそれへの恐怖に比べたらずっと薄い。僕は薄情かもしれない。だけど実際そうだった。数年間、生死を共に乗り越えてきた仲間よりも、ずっとずっと自分が可愛かった。
 仲間の誰かが死んだなら、もちろん泣くことができる。できた。胸が張り裂けそうに悲しかったし悔しかった。むしろ泣くことすらできず、呆然と地面に座り込んだまま立ち上がることさえできなかったこともある。
 仲間の誰かのために命を投げ出すこともたぶんできる。もちろん世界のためにも。そういう覚悟はある。そういう世界で僕は生きてきた。そうしなければ生きられなかった。
 だけど、これはそれとは事情が違う。
 自分の意志で身を投げ出すのとはまるで違う、ふと気付いたら一人減っている、いや、減っていることにすら気付けない。そんな消え方は絶対に嫌だ。
 いっそ、消える前に自分で死んでしまおうか? それなら僕は忘れられることはないし、少なくとも自分で自分の生命の消失のタイミングを選べる。最低でも「死ぬ」ことができる。
<……わたしという個人は、あなたを失いたくない>
 長門さんの声が耳朶に甦る。
 なるほど、死ねば忘れられはしないかもしれないが、彼らは悲しむだろう。
 ふいに彼の、苦笑気味に笑う顔が目に浮かんだ。「仕方ねえな」と言う口の動きまで。
 彼の泣き顔は想像がつかなかった。苦虫を100匹ぐらい口に詰め込まれて噛み潰してしまったような顔ならいくらでも想像はできるのだけれど、彼が泣く姿は想像できない。想像したくもない。
 それから涼宮さんの真夏の青空のような底抜けの笑顔。朝比奈さんの花のように可憐な笑顔。長門さんのしんと静まった瞳。
 もう随分見ていない母親の、父親の笑顔。『機関』の仲間たちの笑顔、笑顔、笑顔。
 みんなの笑顔を僕の死は破壊する…たぶん。有り難いことに、僕が死んでもどうでもいい、とは多分彼らは思わないでいてくれるだろう。
 でもそういう人たちの笑顔を、本当に壊していいんだろうか?
 かつて僕が自殺を考えていたころに、死ぬなと言ってくれた人たちを、裏切ってもいいんだろうか?
 ――いや、僕を忘れてしまうのなら……そんなもの消えてしまえばいい。
 ――いや、彼らの笑顔を破壊するぐらいなら……僕なんて消えてしまう方がいい。  身近な人が非業の死を遂げた時のあの絶望を、悲憤を、多分あのメンバーの誰よりもよく知る僕がそんなことを願ってはいけない。
「……畜生…」
 気持ちが定まらない。『機関』に所属する人間として、血を流すことも、死ぬことも覚悟していたはずなのに。
 でもこんなことは想定外だった。覚悟なんてできるわけがない。
 結局は、世界を守りつつ自分たちが消えない方法を考えるしかないのだ。長門さんにも分らなかったそれを。


 ――長門さん曰く、データの欠落。消失。
 まるでコンピュータの0と1の連なりで示される記号のように呆気ない。
 でも僕を待ち受けているものはそれだ。
 いらなくなったアプリケーションやファイルの削除のように、跡形も残らない消滅。
 今までに立てられた数々の仮説や長門さんから与えられた情報を頭の中でひねり回していたその時、最悪の仮説が頭に浮かんだ。
<この世界は、ある存在が見ている夢のようなものなのではないか>
 この説にどれだけの信憑性があるのかは知らない。そんなもの、神でもなければ知りようがない。
 だが夢ではなくとも、涼宮ハルヒにとってこの世界は夢程度に思うままにならず、だけど願望に従って簡単にひっくり返すことのできるものだということは知っている。
<本来能力者はあの瞬間に力を得たのではなく、あの瞬間にこの世に生み出された存在なのである。故に涼宮ハルヒが力を失いかけている今、我々はその力と共に消え去ろうとしているのだ>
 僕らを振り回す涼宮ハルヒの力、という見地だけでも、彼女の能力が減衰しているのは明らかだ。事実、閉鎖空間の発生頻度は激減し、その規模も縮小の一途をたどっている。
 彼女自身の理性で、充分に彼女は感情を制御できるようになってきている。つまり、僕らはそれほど必要とされなくなっている。
 ならば、必要のなくなった存在は削除してしまうのではないか?
 彼女は僕らの存在を感知していない。彼女の理性を補助するための存在が、人間であることを知らない。
 彼女の意識の水面下で、僕らはただの「もう必要のないアプリケーション」としてアンインストールされようとしているのではないか……。
 冗談じゃない、もしそうなら、僕らはまるで塵か芥みたいなものだ。一山いくらの0と1。ただの道具を構成するデータ群。個々の個性も感情も何もかも無視された存在。最初から彼女にとってないものも同然だから、あっさりと消されていく。
「違う、絶対に違う、そうじゃない!」
 そうであってほしくない。信じたくない。これ以上に整合性のある説が思いつかなくても、こんな絶望的な結論は理解できない。理解したくない。
 息苦しくなってきたので、僕は溜息をついて床に大の字に伸びた。
 もしこの仮説が正しければ、八方ふさがりだ。納得できても納得したくない。違う仮説を、何か、何か、何か……。
 まんじりともしないまま、その上別の説も思いつかないまま、僕は天井のクロスを睨んだまま朝を迎えた。
 ああ、もう何日まともに眠っていないのか、数える気も起きない。学校で授業中に力尽きて居眠りし、教師に叱られる日々が続いている。
 勝手に叱れ、どうせ僕の将来なんて消滅するんだから。
 ヤケを起した僕に殴られないだけでも感謝しろ。


 それから平穏なひと月が過ぎた。僕ら能力者の内心だけは砂嵐のようだったけれど、世界は本当に平穏そのものだった。
 その間、涼宮さんは至って安定していたし、不思議な力の発現もなかった。
 彼女が「何か面白いことはないの?」と目をキラキラさせる頻度に変化はなかったし、少し面白そうな情報を仕入れればワクワクして部室を飛び出すことに変わりもなかった。
 『機関』の敵対組織もここのところはおおよそなりを潜めていて、少なくとも僕らがそれと関わることはまるでなかった。
 そして僕らの数も変化なし。名簿や個々人に対する記憶はあてにならないが、長門さんに照合すればすぐにわかる。新しく観測されたデータ消失はなかった。
 とにかく、この時点で僕らの人数は5人、それは間違いがない。
 いつ次の閉鎖空間が発生するのか。次に消えるのは誰なのか。僕らはもう互いにも『機関』にも連絡を取らず、このかりそめの日常に没頭することで恐怖から逃れようとしていた。
 毎朝通学路で犬を散歩させる近所のおばさん。いつもの駅のいつもの駅員。学生がいっぱいに詰め込まれた電車の、眠気を誘う揺れ。コンビニの店員のやる気のない挨拶。
 平穏な教室、いつもの授業風景。好きな数学の授業。ノートに板書を取るペンの走る音。校庭に面した窓から届く、体育の授業のかけ声。
 休み時間、笑い合うクラスメイト。
 そういう風景を、僕は抱きしめるように見つめ、目に焼き付けるようにした。
 転校早々SOS団に入団したことや、転入時期の妙なタイミングも手伝って僕はクラス内に友人らしい友人を持たなかったけれど、それでもそれなりに同級生たちに愛着はあった。
 このごく普通の県立高校の、ごく普通に年相応の退屈を持て余す生徒たちが、学校が、その生活の全てが、好きだったのだ。
 そして一番好きなこの時間。
 いつもの部室、いつものメンバー。涼宮さんは団長と大書された三角錐を乗せた机でパソコンをいじり、朝比奈さんは甲斐甲斐しくお茶を入れて可愛い笑顔を振りまき、長門さんは部室の隅の窓際の椅子に座って読書に勤しむ。
 そして僕と彼は差し向かいで……最近ルールを覚えたばかりのバックギャモンに興じている。
 非常識な空間での非常識なメンバーによる、涙が出るほどに普通のいつもの風景。
 僕は幸せだった。
 ずっとこうしていたい。この幸せを守っているのだと、僕なりに閉鎖空間で戦うことに意義を感じ始めていたというのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。他の同志たちも同様だ。
 最初の混乱と恐怖、そして苦しみ悩みながら、めまぐるしい3年間を駆け抜けて、ようやく世界が崩壊する恐怖に突き動かされるのでなく、平穏を手に入れ、この世界を守って戦うのはそう悪くはないと思えるようになったこの1年。
 けれど僕は、仲間の誰かは、明日か明後日か、それとも一週間後かひと月後か、いつかに消滅する。家族にも友人にも誰にも気付かれることなく。誰かが消えたことをなんとか知ることができる僕たちにすら、思い出されることがなくなってしまう。
 どうせ消えるのなら、この力に目覚めたばかりのころ、まだ世界を呪って怯えて、死んでしまいたいと思っていたあのころに消えたかった。
 なのに、どうして今更。
「……ねえ、古泉くん。本当に何かあったんじゃないの? すごく調子が悪そうに見えるんだけど」
 団長席から、涼宮さんが僕に声をかけてきた。
 訝しげに僕を眺める涼宮さんの顔。もう何度目になるだろう、この会話は。ここのところ半月ばかり、ほぼ二日おきにこの会話を繰り返している気がする。
 彼は何も言わない。何度か、二人きりの時間を作っては似たような質問を繰り返してくれてはいたが。たぶん涼宮さんに言えない事情だろうと察してくれてはいるのだ。彼にも言えない事情だとは思っていないようだったが。
「いえ、大丈夫です」
「……ずっとわたしも気になってたんですよ。どうしちゃったのかなって…古泉くん、大丈夫って言うけど…」
「……本当に大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないわよ、ずっとここのところ上の空だし、顔色も悪いし…少し痩せたんじゃないの? 学食でも最近会わないし」
 今日はやけに食い下がる。いい加減彼女の忍耐が限界を迎え始めているということだろうか。だとすれば、閉鎖空間の発生も近いかもしれない。
 毎朝覗く洗面所の鏡の中の僕は、ここのところ本当に酷い有様だったから無理もないのだけれど。
 ぎらついて落ち窪む目の下のクマや顔色の悪さやこけた頬は、そういうものは演技でどうにかできるものではないし、その原因となっている精神状態そのものの改善も目下の状況では不可能だ。
「いえ、それはちょっと胃炎を患ってしまいまして、それでなんです」
 これは事実だ。このタイミングすら計れない究極のロシアンルーレットに怯えて、ここのところまともに食べ物も喉を通らない。少し食べても吐いてしまう。医者に行ったら神経性胃炎だと診断された。どうせ消えるのに医者にかかってどうするのかとも思うけれど、胃が痛いのは困る。
「胃炎? それって悩みがあるんじゃないの? ここはひとつ、どーんと団長に相談しちゃいなさい! 団員の精神状態の管理も団長の務めなのよ」
「……大丈夫ですから」
「ウソよ。ねえ、本当にあたし、古泉くんが心配なのよ」
 涼宮さんが、素早く席を立って来て僕の手を握る。
 ひんやりと柔らかな手のひら。本当に心配そうに僕を覗き込む大きな澄んだ瞳。心配するんなら、今すぐ消えた仲間を返せ、これ以上僕らを消さないでくれ。
 あんたが諸悪の根元なんだ、それなのにそんなに優しい顔をするな。どうしてあんたはそんなに優しいのに、あんたの力はああも無慈悲なんだ?
「……大丈夫だって言ってるだろ!」
 僕は発作的に椅子から立ち上がってその手を振り払っていた。
「あんたなんかに心配されたくない! ほっといてくれ!!」
 そして彼女を突き飛ばすようにしながら大声で叫び出してしまった。
「こいずみ、くん…?」
「こいずみくん…」
「…………」
「……古泉?」
 3人の声、4人分の視線。
 しまった。これはまったく僕らしくない、古泉一樹らしくない言動だ。慌てて笑みを繕い涼宮さんに頭を下げる。
「……あ、いえ、済みません…。本当に、大丈夫です。済みません涼宮さん」
 すると、今まで無言だった彼が席を立ち、大股で机を回って来て、僕の腕を掴んだ。その顔は怖いほど真剣だ。これは怒らせてしまったのかもしれない。根本的にフェミニストの彼にとっては、涼宮さんに限らず女性を突き飛ばすなどという行為は許し難かろう。
 けれど彼は真剣な顔のまま、やけに優しい声を出した。
「おい、それのドコが大丈夫だよ? お前がハルヒを怒鳴るなんて明らかに異常だろうが。……もう帰れ。送ってってやるから」
「……え? いえ……」
 いっそ怒られた方がマシだった。
 あまりに日頃と違いすぎる言動は、怒りよりも不安や心配を誘発するようだ。涼宮さんも、そして朝比奈さんも、ひどく心配そうな、あるいは怯えたような顔で僕を見ている。長門さんさえも、本から目を上げて僕をじっと見つめている。彼女は事情を知っている、だけど彼女にも何もできないし何も言えない。だから僕も彼女にはあれから思いついた仮説以外、何も言っていない。会話らしい会話すらしていない。
「本当に、何でもないんです……でも、そうですね。体調はあまり良くないようですね。驚かせてしまいましてすいませんでした。もう、帰ります…。一人で大丈夫ですから」
 これ以上部室にいては、僕は泣き出してしまうかもしれない。泣くだけならまあこの周囲の反応からして涼宮さんの不興を買うこともあるまいが、涼宮さんに事情をぶちまけることだけは避けたい。何が起きるか想像もつかない。
「待ちなさい、古泉くん!」
「……待てよ!」
 僕は初めて、個人的な事情で涼宮さんの命令に背いて部室を飛び出した。

 そしてその直後、約一ヶ月ぶりにあの不快な感覚が背筋を貫いた。携帯がポケットの中で震え出す。
 閉鎖空間が発生したのだ。それも、学校のグラウンドからいきなり入れるような近所に。
 明らかに僕のせいだ。
 今度こそ本当に泣きたかった。だけど泣いても仕方がない。
 さっきの彼の心配そうな顔が目に浮かんだ。
 消えたくない、誰でもいいから僕以外の人間が消えればいい、僕はまだ消えたくない。まだやりたいことが沢山ある。今度やろうと言っていたカードゲームもまだ買っていない。バックギャモンもまだ3回ぐらいしか遊んでいない。ようやくルールを覚えてスムーズにプレイできるようになったばかりなのに。
 ……でも、消えるかもしれないと彼に告げることもできない。そんなことは何の役にも立たないことを知っているから。消えてしまえば彼は全てを忘れる。僕が消えるまでの間、彼を悲しませる以外の役には立たない。明るい種明かしのあるようなことでならともかく、こんな救いのない理由で彼を悲しませたり戸惑わせるのは嫌だ。
 僕は閉鎖空間を隔てる障壁の前に辿り着き、そして立ち尽くした。足が竦んで動かない。
 そこで暢気に走り込みをしている陸上部の連中は、まさか自分たちのいる場所にそんな無茶苦茶な異次元が重なっているなんて欠片も思わないだろう。それでいいのだけれど。
 僕はそこから目を剥がし、見えない壁の向こうの防球ネットの上に広がる青空を見上げた。
 あと一歩前に出るだけだ。僕が自分で引き金を引いたのだから、自分でケリをつけるべきだ。他の誰も来なくても、僕だけはここへ入らなくてはいけない。
 怖くない。大丈夫だ。神人や閉鎖空間が怖いなんていう感情はとっくの昔に捨てたはずだ。最初の頃はいつだって死ぬ覚悟で閉鎖空間に入ったものじゃないか? 死と消滅では後に遺す影響の面では大違いだが、僕自身の感じる苦痛の面では消滅の方が圧倒的に楽に違いない。だから怖くない。怖くなんかない。平気だ。
 独り肯いて、閉鎖空間を隔てる障壁の向こうへ踏み込もうとした瞬間、背後で彼の声が響いた。
「古泉!」
「……なん…」
 間に合わなかった。振り返った僕の足は、彼に押されるように境界を踏み越えていた。
「うわっ……?」
 そして僕の手を鷲づかんだ彼も、一緒に縺れるように閉鎖空間の中へと吸い込まれた。
「……また、えらく近所に出たもんだな。どうも学校が閉鎖空間化してると嫌なことを思い出すぜ」
 彼は冷え切った色彩の無人のグラウンドを見回しながら、妙にのんびりとした口調で言った。本当にのんびりしているわけではないのは、その硬い表情から容易に想像がつく。
「……まあ、原因は僕ですからね…」
「だろうな、もし俺にもハルヒ的変態パワーがあったら間違いなく巨大なのをどかんと一発作っているところだぞ」
 僕の手を放そうとせず握りしめたまま、彼はそれこそ苦虫を100匹まとめて噛み潰したかのごとく、不快そうに顔をゆがめた。
「……あはは、済みません」
「笑い事じゃない」
 彼はひどく真面目な顔を僕の顔に近づけた。これじゃいつもと逆だ。
 彼の手に強く握られた手のひらが、汗ばんでいる気がする。
「……何があった?」
 低く響く囁き。彼の目が、僕の瞳を射抜くように真っ直ぐに見据えている。
「……少し、トラブル続きで疲れていましてね。でも大丈夫です。いわば内輪もめのようなことで、あなた方には関係ありませんよ」
 僕は目をそらし、笑顔を作り直して嘘をついた。一歩後ずさって、彼と距離を取り直す。
 いつだって僕は嘘と事実と憶測を適度に混ぜながら彼に接してきた。どれが本当でどれが嘘で、どれがただの韜晦なのか、彼にはわからないはずだ。多少信憑性がなくても、それが本当である可能性も彼は否定できない……そのはずだ。
「……それでハルヒに八つ当たりか? らしくないな」
 ところが僕はどうやら日頃やりすぎていたらしい。信用ならない男である僕の発言は、彼に信じてもらえなかったし、嘘でも信じる必要がある、とさえ思って貰えなかった。
 そこで僕は嘘をもう一つ上に重ねて、彼の反論をねじ伏せようと試みた。
「なにしろ連日の睡眠不足でね。寝る間もないんですよ。お陰でひどく短気になってしまっているようです」
 けれど彼は表情一つ変えず、真っ直ぐに僕を睨み続けて、しつこく食い下がってきた。
「はぐらかすなよ。……お前がハルヒの命令を無視したのも初めてだぞ、気付いてたか? 眠いどころの話じゃないだろう、異常だ」
 睡眠不足は嘘じゃないんだけどな。あなたも充分あなたらしくないですよ……と言うと話がこじれそうだったので、
「……気付いていますよ。あのままではさらに暴言を吐きそうで怖かったのでね、撤退しました」
 そう言って首を少し傾げてにこっと微笑むだけに留めておいた。だが、彼は丸め込まれるどころかあきれ顔をして僕にさらに詰め寄った。
「……お前、やっぱりおかしいぞ。笑えてない。なんだその引きつったツラは」
 どんな時でも笑える自信だけはあったのに、僕はそこまで追いつめられていたのだろうか。
「そうですか……やはりだいぶ疲れているようです。さっさと終わらせて帰って寝ることにしますよ。……ああ、その前に一度戻りましょう、このあたりは安全だとは思いますが、念のためあなたは外で待っていて頂いた方が、」
 ここからはまだ神人を目視することはできない。だから安全だとは思うけれど、僕らを消す力に万一間違って彼も能力者の一部として判断されたら大変なことになる。
 涼宮さんに、僕が謝っていたと伝えて下さい。そう言いながら彼の手を引いて通常空間と閉鎖空間とを隔てる壁へ向かって歩き出すと、大きな溜息と共にぐいと引っ張り戻された。
「……まさか、ここまでお前が隠し通そうとするとはなあ。本当は俺が口を割らせるはずだったんだが」
「え……?」
「長門には、ずっと口止めされてたんだがな。仕方ない」
 がくん、と垂直同期が狂ったように視界が揺れた。立っていられなくなったのだと気付くのには、腕だけを彼に支えられる格好で膝を地面につき、それからべったりと地面に尻をつけてから数秒の時間を要した。
「……おい、大丈夫か」
「な、長門さんから、聞いて……? 内密にとお願いしたのに…」
 何故僕の過度の接触をあまり怒らず、ある程度受け入れてくれたのか、その理由が理解できた。
「……ああ、全部な。だけどお前の様子が随分前からおかしかったからな、それで俺が長門を問いつめたんだ。あいつは悪くない」
 頭が酸欠を起したようにぐらぐらした。
 そんなに、僕の態度はおかしかったですか? 参ったな、体調に起因する部分以外は今まで通りに演じきっていたと思っていたのに。
「アホか。まあお前の演技は結構なレベルだったとは思うぜ、ハルヒや朝比奈さんも最初のうちは気付いてなかったしな。だけどお前、毎日毎日ツラ突き合わせて手の内の読み合いやってる奴にまで気付かれないと思ってたのか?」
 彼の声はひどく優しい。優しすぎて体中から力が抜けていく。もうどこにどうやって力を入れれば立つことができるのか、身体が忘れてしまったようで立ち上がることもできない。
「……だけど…だけどあなたにだけは最期まで知られたくなかったのに……」
 唇に塩辛い味を感じて、初めて自分が泣いていると気がついた。こんな惨めな姿も、彼に見られたくはなかったはずだったのだが。どうやら僕はショックを受けているというよりも、気が抜けてしまったらしい。
「長門もそう言ってた。だからなるべく俺はお前から無理に聞き出そうとは思わなかったんだ。お前から話してくれる時が来るかもしれないとも思ってたし。だけどな、もうさすがに限界だぜ。挙げ句の果てに閉鎖空間まで発生しちまったんじゃな、俺の方が保たん」
 座り込んだ僕に合わせて彼も地面に膝をつき、優しく僕の頭を撫でてくれた。暖かくて柔らかく心地よい感触に目を閉じながら、僕は本格的に涙が溢れ出すのを感じていた。
「済みません。どうせ消えて忘れられてしまうなら、余計な心配をさせたくなかったんです……」
「……そりゃあショックだったし知ってから毎日つらかったさ。心配でどうにかなりそうだった。それでも知らないままでいたよりずっと良かったと思うぜ。本当ならお前の口から聞きたかったけどな。お前の愚痴を聞けるのは俺だけだって、それなりに自信があったんだが、思い上がりだったのかね?」
「違います、確かにあなたに言えば楽になれるとは思いました。でも、どうせ忘れてしまうことですから……」
 それなら、彼には知られずに笑っていて欲しかっただけだったのだ。 「馬鹿野郎! 忘れないからな、俺は絶対に忘れてやらん。俺はなあ、絶対にお前のことを忘れたりしないんだよ! ……絶対に忘れるもんか。……だから、消えるなよ…消えるんじゃない…!」
 …これは夢か?
 撫でられるぐらいならともかく、どうして僕は彼に息が詰まるほど強く抱きしめられているんだろう。
 そりゃあ、せいせいするぜと鼻で笑うほど冷酷ではないことはわかっている。泣いてくれることもあり得ると思った。だから僕は隠そうと思ったのだし。
 だけどこんなにきつく僕を抱きしめて、こんなに必死に忘れないと、消えるなと、言ってくれるとまでは思っていなかった。彼は僕との身体的接触を我慢して許してくれることはあるかもしれないけれど、自分からそういうことをしようとする人ではなかったはずだ。
 嬉しかった。嬉しくて、だけど今更、1時間と経たずに自分が消えているかもしれないというこんな時にそんなことがわかったって、その嬉しさの分だけ悔しいばかりだ。
「……僕だって消えたくない!」
 僕はわき上がる悔しさのままに大声で叫び、それから彼の背中に腕を回してきつくきつく抱きしめた。
「……消えたくないです……キョン君」
 初めて、僕は面と向かって彼のあだ名を呼んだ。いつものように苗字や二人称で呼ぶのでなく、親しい友人のように。
「……僕は消えたくない…あなたと一緒にいたい……、だけど、だけどコンピュータ上で余分に容量を食っている無駄なアプリケーションを消去する時に、どの0を、どの1を消去するか、あなたは決めますか? アプリケーションを構成するファイルのどれから順に消していくか、あなたは一々自分で決めますか? ただアンインストールの作業をしているという認識しかないでしょう、それと同じことなんです。……僕たちはたぶん全員まとめてひとつの存在としてしか認識されていない。次に消えるのが誰なのかもわからない。長門さんにすらどうすることもできないんです、僕には何の抵抗もできない。もし今回僕が消えるとしたら、もうそれまでなんです……」
 身体の震えが止らなくなって、僕はいっそう強く彼にすがりついた。彼は震える身体をしっかり抱き留めてくれたので、僕は思いきりその腕の中で天を呪い神を憎み、役に立たない宇宙人を罵り介入してくれない未来人を詰る暴言を吐きながら泣きわめくことができた。

 人間というのは誰かに向けて思い切り感情を解放してしまうと、妙に冷静になるか、あるいは行き着くところまで逆上して止らなくなるか、そのどちらかに分けられるのではないかという気がする。
 僕は今回初めて気がついたのだが、完全に前者のタイプの人間だったらしい。『機関』の能力者としての生活が、僕をそう作り替えただけなのかもしれないけれど。
 つまり僕は不思議に恐怖も怒りも失っていた。泣きすぎて頭は重く少しぼうっとしているが、心に詰め込まれた真っ赤に焼けた鉄のような重い焦燥感はすっきりと消えていた。それは冷静になったわけではなくて、単にもう鈍磨して感じることもできなくなっただけなのかもしれないけれど。
「なあ、……ハルヒはきっとお前に消えて欲しくないはずだと思うんだが」
 二人とも泣き止んだあとも僕の身体を放さないまま、彼が耳元でぽつりと呟いた。
「……涼宮さんは、」
 思った以上に冷静な声が出た。もう少しはまだ喉に絡んだり震えたりするものかと想像していたのだけれど。
「僕が超能力者だとはご存じないでしょう、ですから関係ないんですよ」
 僕個人が彼女にとって大切な副団長で友人という存在だとしても、僕と、無駄に世界のソースを食うだけのアプリケーションとしての能力者とは彼女の中で決して繋がらない。
「じゃあ、全部バラしちまえばいいんじゃないか?」
 僕だってそれを考えなかったわけではない。だが、彼女に超能力者の存在を悟らせることはできない。いくら彼女の力が弱まっているとはいえ、地味な超能力者が街に溢れる狂った世界ができあがりかねない。
「……超能力者が当たり前にいる世界に住みたいですか? いや、それよりももっと無茶苦茶なことが発生するかも知れない世界に」
 あなたみたいな人には受け入れがたい世界ではないですか?
「……それでもいい。お前が消えるぐらいだったら、こんな世界ぶっ壊れて滅茶苦茶になっちまえばいい! ここから逃げ出して、閉鎖空間なんか拡大するに任せておいたっていいじゃないか。世界の崩壊大いに結構! なあ、お前だってそういうことをちょっとは考えたんだろう? それでいいじゃないか、ちっとも悪くない」
 僕の背に回る腕に力がこもる。
 あれほど現状維持を願っていた彼が、とんでもないことを言い出したものだ。
 それほど僕を失いたくないと思ってくれるのは嬉しいし可笑しくもある。だが、悠長に喜んだり笑ったりしている場合でもない。もちろん彼の言うようなことは何度も考えたけれど、結局そんなことは許されないと否定した意見だったからだ。
 僕は彼から身を離して立ち上がり、彼の目を正面から見据えた。ちょうどさっきと逆の構図だ。
 いや、少し違うかな。僕は彼のような真面目な顔はしていなかったから。目までは笑えていないかもしれないけれど、たぶん今度こそちゃんと笑えたと思う。
「……良くありません。この世界の平穏を守るために、僕は何度も死にかけたんです。もちろん僕だけじゃない、何人もの仲間たちが何度も血を流した。そのうちの数人は、本当に命を落としてしまいました。僕は、彼らの犠牲を無駄にするわけにはいかない」
「逆だろ、死んだ奴のことより自分のこと考えろよ! あんなにガタガタ震えて怖がって泣いて、それでも自分より仲間だとか世界だとかのことを気にするのか!?」
 彼が、僕の襟首を掴んで乱暴に揺さぶって、何でそんな風に笑えるんだと喚いた。僕が冷静になった分だけ、今度は彼が逆上している。
「……気にします。僕はそうやって生きてきたんです。そのためだけに生きてきたと言っていい。僕は、僕らは世界のために存在している。僕らが世界に優先されることはあり得ない、あってはならない。僕はこうするしかないんです」
「ふざけんな!」
 激昂して拳を振るい上げた彼の姿が、僕に迫る彼の拳が、高速度撮影された映像のように目に焼き付いた。
 不意打ちを食らった僕は目の前が瞬間的に真っ白になり、次に気がついた時には校庭に仰向けに倒れて彼にのしかかられていた。
 頬がずきずきと熱を持って痛む。
 空を見上げる僕の目に、赤く小さな光がモノクロの空を矢のように切り裂いて飛んで行くのが映る。ああ、もうタイムオーバーだ。行かなくちゃいけない。本当は、誰かが来る前に僕ひとりでケリをつけておきたかったんだけど。
 深呼吸をひとつする。微笑みを作り直す。そうだ、僕は世界のためにある存在。たとえ役目を終えれば世界からアンインストールされるとわかっていても、僕はだから最期まで世界のために働く。
「何だってんだ……。そんなの、お前、狂ってる…」
 想像したくもなかった、涙でぐしゃぐしゃに濡れて醜く歪んだ彼の顔が、僕の胸を締め付けた。こんな顔だけは見たくなかったのにな。さっき散々泣き顔を見せた僕の言うことではないかもしれないけど。
「ふざけても狂ってもいませんよ。僕はいつでもほどほどに真面目で、ほどほどに正気です。……もう仲間が来てしまったようなので、僕は行かなくてはならない。この閉鎖空間を作った元凶として、責任を取らなくては」
 僕は起きあがり、彼の腕を引いて立ち上がった。大丈夫、今度は立てる。ちゃんと脚に力が入る、これなら戦える。
「……多分不可能だとは思いますが、もし今回僕が消えてしまったら、できれば僕を覚えていて下さると嬉しいです。忘れないと言って頂けて嬉しかったですよ。……これが最期のお別れになるとは限らないのですが、後悔はしたくないので一応お別れを言っておきます。では、失礼」
 呆れかえっているのだろうか、完全に魂が抜けてしまったように呆然と立ちつくしている彼に、今度こそ一分の隙もない完璧な微笑みを向けた。いつだか長門さんに向けたそれより、さらに極上、とっておきのやつだ。僕はいつだって笑顔を安売りしているけれど、ここまで最高の笑顔はまだ見せたことはないはずだ。
 こいずみ、と声を伴わずに僕の名を呼ぶ動きをする唇にそっと口付けて、僕は彼の手を握り、その肩を突いて空間の外に押し出した。
「…さようなら」
 その瞬間の愕然とした彼の顔は、必死に僕の手を掴み直そうとした彼の手のぬくもりは、僕の唇に残る乾いた唇の感触は、たぶん僕が消えてなくなる瞬間まで忘れないだろう。別に口付けで閉鎖空間が消滅することを期待したわけではない。そんなわけはない。ただ、後悔はしたくなかっただけだ。もし今回僕が消えずにすんだなら、その時は謝っておこう。
 加速しながら見下ろすのが見慣れた町の風景だったのは、僕にとっては有り難いことだ。もしこの後消えるのが僕でも、最期にこの風景を見られるのなら悪くない。彼といつも笑って歩いたこの風景を、あの道を、壊されないように戦うのなら本当に悪くない。
 僕らの通学路を粉砕する小型の、あまり攻撃力もなさそうな神人が一体、視界に飛び込んできた。なるほど、こいつだけを倒すのなら、5人でも多すぎるぐらいかもしれないな。
 僕はその周囲を飛び回る4つの赤い光の元へと回り込むようにして合流する。
「やあ、済みませんね。お待たせしました」
 ずきずきと熱を持って疼く頬に触れながら、僕はなぜだか、誰に見せるためでもない笑みを浮かべていた。
 もう、何も怖くない。
 どこかで彼が僕の名を叫ぶ声が聞こえたような気がした。


 ――俺は、何だってまた校庭に呆然と突っ立っているんだろうかね?
 どう考えてみても、まだSOS団のアジトとして占拠した文芸部室でダラダラと団活をやっているべき時間であり、ひたすら本を読んでいるか、パソコンをいじっているか、さもなきゃ五目並べやらオセロやらをちまちまと、というような非生産的な青春の一ページを埋める作業に勤しんでいる頃合いのはずだ。朝比奈さんが手ずから入れて下さるお茶という名の甘露など啜りながらな。
 ……しかしこう考えると俺達の普段の団活は、名前に反してえらく地味なもんだな。何が世界を大いに盛り上げる団だか。著しく盛り上がりに欠けるぞ。改名を検討すべきだろう。いや、時折盛り上がるを通り越してデタラメな、古今東西の物理学者が発狂するような出来事が発生するからいいのか? あれは団としての活動とは違う気もするが。
 まあ、とにもかくにもSOS団の活動というのは基本的にはインドア的な成分で90%が占められているのであって、俺が校庭なんぞにボケっと突っ立っているのは妙な事態なのだよ。  そりゃあハルヒの思いつきによって、アウトドア派に宗旨替えを強いられることもしばしばあるが、だが今回はその例にも該当しない。地獄の千本ノックを繰り出すハルヒの姿もないし、無表情に物理法則を無視したとんでもない記録をたたき出す宇宙人の姿も見えない。謎のコスプレ姿を披露なさる朝比奈さんの麗しきお姿も見あたらない。俺は体操服を着ているわけでもないし、何らかの備品を担がされてもいない。
 となればこれはえらく妙な状況だぜ? 何で俺はこんなところにいるんだか。
 何らかのハルヒ的な力が働いて俺だけが瞬間移動でもしちまったと言うんだろうかね。……さすがにそれはないか。
 なら、部室でいつの間にかウトウトしてしまい、惰眠を貪っている間に寝ぼけてフラフラと夢遊病でここまで歩いて来ちまったんだろう。そうに違いない。さもなきゃ、俺の頬が涙でベッタリ濡れていたり、何故か制服が砂埃で汚れていたり、やけに喉が痛かったりする理由がわからんからな。
 通常営業のSOS団にあって、泣くようなことなど何も起きるはずがない。朝から同級生の訃報だとかなんとか、泣きそうな事態には一度たりとも出くわしていないしな。というかそんなヘビーな話がそうそうあってたまるか。
 放課後も部室で朝比奈さんとのんびりオセロを楽しんでいたはずだ。だからきっと妙な夢でも見たのであろう。泣きながら土下座したくなるようなな。
 夢遊病の気はなかったはずだが、それ以外の理由には全く心当たりがないのだから仕方がない。それで納得しておくほかない。それとも学校の部室でということを考えるとあるまじき事だが、俺は酒でも飲まされたのであろうか。この記憶のブッ飛び方は夏休みの合宿の時に似ていなくもないしな。頭痛はないんだが。
 なるべく端から見て異常な奇行に走っていないことを、なるべくその姿を目撃されていないことを祈る以外あるまい。
「やれやれ、疲れてんのかねえ…」
 俺は頬をブレザーの袖で拭い、首をグルグル回して肩の周囲の筋肉をほぐしながら、ハルヒと朝比奈さんと長門が待つはずの部室へと踵を返した。


トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2008-01-30 (水) 23:16:46